議論について

数日前、ウェブ上で、有名ブロガーchikirinさんのブログ「chikirinの日記 for DU」の「「話し合って決める」という幻想」というエントリが物凄く取り上げられていて、興味を惹かれて読みました。私はchikirinさんの存在はさすがにもちろん知ってますが今まで読んだことがなかったですし、この「chikirinの日記 for DU」はマジメに読んでいいものなのかあるいは幾分扇動の入ったものなのか、そういうノリなのかどうなのかも判らないのですが、読んで思ったことがありました。

約めて言うと、このエントリで言われているのは、「議論するということに意味を見いだせない」ということで、「議論して、誰かの意見を放棄させることなんて言語道断で、各々、思っている通りに生きればいい」ということだと思うのですが、この、「議論して誰かの意見を放棄させる」というところに、違和感を感じた訳です。

私にとっての議論というのは、基本的に「自分の意見を変える」ために行うものだったからです。

もちろん、「なんでオレの言うことが判らないんだ!!」と頭に血が上ることも少なくないですが、少なくとも相手がなぜそう考えるかは、相手の話を聞かないと判らない。「話を聞く」ことと「議論」は違う、訳ですが、「話を聞」いて、その先で「議論」したときに何をしているかと言うと、私の場合は、「自分の考え方で変えられるところはあるか」というのを探っている作業になる訳です。

私は以前から、「あなたの”あなた”と私の”あなた”は違う」と言い続けているんですが、誰かとの意見交換(話を聞くのと議論とを明確に分けなければいけないのなら、敢えてこういう言い方をする)において、心がけているのは「主客をできるだけ入れ替える」ことで、自分が説得したいと思うなら相手もこちらを説得したいと思っていて不思議はない、という主客転倒と、止揚じゃないけど、ある考え方とある考え方が交わり否定しあうところでしか、新たな考えが出て来ない、ということです。

自分の意見を「言う」ということは、誰かにとっては私の意見を「聞く」ということです。ということは、誰かが意見を「言う」ときは、私は誰かの意見を「聞」かなければなりません。それぞれが独立して一方通行でそれでもいいのかも知れませんが、その一方通行の束を一つの行為をしてみたとき、そこに新しい考えの生まれるチャネルを見ることが出来ると思います。