『おそろし 三島屋変調百物語事始』���宮部みゆき

おそろし 三島屋変調百物語事始
宮部 みゆき
角川グループパブリッシング  2008-07-30

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 読了していて感想が書けてなかった本その���。



 宮部みゆきで怪談というからかなり期待して読んだんだけど、怪談話としての怖さはそれほどでもないです。人間の性���さが���とか、そういう方面での怖さはもちろん描かれてるけど、怪談としての怖さがミックス���れているかというとそれは薄いです。あくまで、怪談の体裁を借りている小説、と言えばいいか���
 三島屋に奉公に来たおちかが、主人の意向で、様々な人の怪談話を聞くことになる、という筋立てで、最終章ではその怪談話の一つに実際に巻き込まれる。その怪現象は、昔から歴々と続いてきたことであって、どうしようもなく止めようのない呪縛であるが故に誰かがまた犠牲となり、同じことが繰り返されるのだが、その同じことが繰り返されるなかで出てくる、 「誰もあんたが憎くてしたことじゃない。許せとは言いませんよ。ただ、勘弁してやってください。堪えてやってくださいよ。」という台詞がポイントだと思う。繰り返されることは、誰かがどこかで堪えないといけない。逆に言うと、堪えれば止められる。どうしようもないことなら、誰かを責めてもしようがない。許せとは言わない。勘弁するのだ。堪えるのだ。



 これで思い出したのが、「現代用語の基礎知識2009」に書かれていた「だれでもよかった」の項(p1237���。

社会学では近年、意味不明の殺人に対して「幼稚な全能感の発露」という言葉を与えてきた。原初的な幼稚とは、自己と他者の区別がつかないこと。全能とは「神」である。怒りをだれでもいい他者に向けることは親に向かってだだをこねる幼児と同じだが、幼児は親のおかげで何でもでき、全能である。

 『おそろし』の繰り返しは、その人が被害に遭ってしまう因果関係はなくとも、「勘弁する」「堪える」というのがまだ成り立つが、「だれでもよかった」という事件は、「勘弁する」「堪える」ということさえままならない。自分と他人・社会の区別がつかないことと、何でもやめようと思えばすぐにやめてしまいやすくなった社会というのは、密接に関係してるような気がする。



p13 庭先で揺れている曼珠沙華の花が目に入った。
p51 だが相手方は、そこでかける年月が不安だ、嫌だというのだからどうしようもない。
p60 心のどこかには、それでも頼る気持ちがあったろう。許して、受け入れてもらえるのではないかという期待もあったろう。
p75 「そうだね、だからおまえは善い女だと言うんだよ」
p84 「ついでに言うなら、八十さんよ。あんた、もう少し客の人品骨柄を見る目を鍛えんと、これからもっともっと大けなお店になろうというこの三島屋の番頭は張れんよね」
p94 「昔の人は優雅だったんですねぇ。」
p196 わかっていて、知っていて、知らぬふりをすることも同時に学ぶ。
p220 こんな女に賭けて堪え忍んできた丸千での日々が無になったことが、情けなくて忍びなくてたまらなかった。
p223 だがおちかは、兄の言葉を容れれば、解けた帯がいつかは足に絡んで転んでしまうと知っている。
p302 「どうしようもなかったんでございますよ」
p383 我々の胸の痛みを。生きていたときにしでかした、愚かな過ちへの後悔を。
p392 「誰もあんたが憎くてしたことじゃない。許せとは言いませんよ。ただ、勘弁してやってください。堪えてやってくださいよ。」
p410 「繰り返されてはきたけれど、過去のこと」