『八月の路上に捨てる』���伊藤たかみ

八月の路上に捨てる
伊藤 たかみ
文藝春秋  2006-08-26

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自販機補充業務をこなす傍ら、今日でお別れとなる先輩で同僚の女性・水城さんに、自分の離婚の顛末をとつとつと話す敦。第135回芥川賞受賞作。

伊藤たかみは、もちろん面識はないが高校の同窓生。いつか読もうと思いながら、今日まで読まなかったのは、親近感と近親憎悪の板挟みの現れだったに違いない。それで敢えて言うと、僕はこの小説はたまらなく好きだ。そうしてその好きの理由には、同じ土地で同じ時間を過ごした人間には共通のセンスが宿る、と信じさせるものがある。

話の内容はたわいもない。敦が千恵子と学生の頃に出会い、同棲し、結婚し、すれ違って離婚するまでを、似たような境遇の水城さんに仕事中に語って聞かせるだけだ。小説にストーリーを求める向きにはまったくもって勧められない。ただ、敦と千恵子のすれ違いぶり、「夢」の扱い方のすれ違いとか「金」に困窮してすれ違っていく様とか続くから言えないのであって終わるなら優しくなれるすれ違いとか、まさにガツガツと描写してくる。物語を読む楽しみというのは、起承転結とカタルシスの一種類だけではないと思う。そして、芥川賞というのはそういう楽しみとは違う楽しみを持つ小説に与えられる賞ではなかったか。amazonの読者レビューが軒並み「芥川賞はおもしろくない」という色で塗りつぶされていたのが悲しかった。近代文学の歴史の中で、大衆文学が芸術的な価値を持つ文学へと昇華されてきたのに、現代はインターネットという大衆の声を拡声する仕掛けによって、文学に対する視線が「大衆文学」だけになってしまっている。そして実際、どんな小説をもってしても、「大衆文学」以外の面白さがあるんだよ、ということを気付かせることができなくなっている。あたかも、大人になっても苦味のうまさに開眼しない大人のようだ。

この小説の言葉づかいやテンションは、ものすごく生理的なところで親近感が沸く。自分の知っている言葉だ、という感じがする。例えばタイトル。このリズム感とか、何を���というところとか、たぶん、「センス」と言われるようなところでやっぱり共通するのだなあと思った。

もう一つ、最後の最後に「俺は一時たりとも遊んでなんかいなかったぞ。」と簡単に締め括るために展開をもっていくところなんかも。  

p22「仲良くなったらわかるもんだろ」
p29「そう。駒は煙みたいにぽんぽん消えていく。だけど上手くやったら、最後の最後で玉を追いつめられる。問題はちゃんと解けるんだよ。いつかね」
p36「みんな狭苦しい思いして、お前のためにここで飲んだのではないか。」
p44「あんたみたいなのは三十過ぎてから干上がるよ。包容力ないから。やっぱり大人はそこだわ」
p68「そんな生やさしいもんじゃないよ。本気って、違う。その人を好きとか嫌いとかもわからなくなる。ものすごく怒ってるかもしれなくてさ、相手の心までずたずたにしてやりたくなって。」
p89「しかしまた、何のために言わなかったのかは敦にもわからなかった。わからないのだが、なぜか彼女らしい気がする」