独走会 - 2016/01/11 走り初め 春日大社

愉しみは本人にしか判らない。何が苦しいのかが他人には判らないのと同じように。

だから、言わなきゃ判らないという人に限って、言っても判らない。これは僕が村上春樹作品を読み始めた頃から一貫してその作品から受け続けている影響。ロードバイクで20km弱の道のりを1時間弱かけて走っていって、春日大社にお参りしてお札・お守りに加え破魔矢と熊手を頂いて、破魔矢と熊手は手で持ってお帰りくださいということなので帰りは高々20kmの距離を輪行で帰る、なんて、ロードバイクに乗る人から見ても神社仏閣参拝が好きな人から見ても何やってんだろうと見えることだろう。だけど僕にとっては、限られた時間でも愉しもうとしているのだ。人のポイントが判らない人ほど、ストレスを感じさせる人はいない。例え、その人のメンタリティが真直ぐで前向きでポジティブなものであったとしても。それはまやかしに過ぎない。

そして、そして仮にそれが「愉しみ」のように見えたとしても、本人の感じていて「愉しみ」という言葉で表したい「愉しみ」と、周りがそれを「愉しそう」と見えて「愉しみ」という言葉で表したくなる「愉しみ」とは必ずしもぴったり合致する訳ではない。特にこのことが「周り」側に立ったとき理解できない者は、けして言っても判らない。そこに深い絶望があり、その絶望と向き合うためには独りで走るしか道はない。

前に走ったのも春日大社で一か月半ぶり。御朱印は過去の参拝を振り返れるのも良いところ。御朱印を書いてくださる方と一言二言会話ができると不思議と嬉しい。