2012/10/04

誘われないのに断るセリフを覚えて

  • 熱意を持って頑張る人、何かをなし遂げた人の努力を虚仮にするヤツを、僕は何があっても絶対に許さない。
  • 同じように、真摯なスタンスを不用意に足を引っ張ったりそれを称賛したりする行いを、僕は何があっても完膚なきまでに叩き潰す。表に出て来ればいい。
  • 出て来れないなら、つべこべ言うな!陰でぐちぐち傷をなめ合うように生き延びているだけの連中に時間をとられていられない。
  • 今のポジションは今のポジションとして、当たり前の気は配りながらも、人にどう思われようと、やるべきこと自分がよいと信じることを地に足をつけて実行するのみ。

どこに居てもミスキャスト
独り言が増えたロストマン
誘われないのに断るセリフを覚えて 

「主」なき御宣託 または 転向への反抗: 村上春樹氏の領土問題に対するエッセーを読んで

朝日新聞デジタル 村上春樹さん寄稿 領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」

作家の村上春樹さん(63)が、東アジアの領土をめぐる問題について、文化交流に影響を及ぼすことを憂慮するエッセーを朝日新聞に寄せた。村上さんは「国境を越えて魂が行き来する道筋」を塞いではならないと書いている。

今は会員ログオンしないと読めないけど(「朝日新聞はケチだ」みたいなコメントをときどき見たけれど、当日記事は無料、バックログは会員ログオン必要、というのはニュースサイトでは普通だと思うし、当日ニュースが無料で見れるのが一般的になったこと自体恵まれたことだと思う)、僕は当日、全文を読むことができました。読んだその時は、「同じような主旨でも、言い方と表現でずいぶん説得力が変わるものだなあ。学ばなければ。」と思ったのですが、しばらくして結構大きな違和感が、やっぱり沸々と湧いてきました。

僕は、尖閣諸島は日本固有の領土だと思っています。その前提で考えているということをまず書いておきます。

村上春樹氏のエッセーは、「これはやはり、日本人固有の”お上精神”の発想だな」と、つくづくと思ったのです。

尖閣諸島は日本の領土で疑いはないと思っているところに、様々な理由をつけて中国の領土だと言い募られている。そして、日本企業がもはやテロの域に達した暴動で、膨大な損害を被っている。中国では日本製品や日本の文化物が店頭から消えていっている。そんな中でも、日本は、特に、文化的な報復をするべきではない、これまでの先達が累々と築いてきた努力を無駄にしてはならない、という趣旨のことがエッセーでは述べられる。

これはこれで確かに至極全うで、恐らく国際的にも認められる振る舞いだとは思うけれど、そういう褒められた立ち居振る舞いだけで問題が解決しないのがまた国際社会で、だから我々日本人は大きな苦しみを感じているのだと思う。北方領土、竹島、尖閣、こういう領土問題は、我々日本人が二度と侵略戦争を起こさないように過去から未来に受け継がれるシンボルとしての「問題」だという考え方を取ることもできるけれど(実際、未来に渡って我々日本人がそういう過ちをもう繰り返さないという保証はどこにもない、今この現代でさえ、何とならばやりかねない思想が見え隠れするくらいだから)、それはまた別の問題、別の文脈なのでここでは置いておきたい。

尊敬に値するような振る舞いを続けて耐え忍ぶことで、いつかそれが報われる日が来る。村上春樹氏のエッセーを、「問題解決」の観点で読むならばこういうことになる。繰り返しになるけれど、国際社会というのは、正しいことを正しいと言い続けるだけでその正論が通るような世界ではない。国際社会どころか、日本の、日常の社会だってそうじゃないか。だから、「問題解決」するためには、何らかのやり方が必要になるのだ。我々の考え方を判ってもらうための、何らかの「やり方」が必要になる。その「やり方」が褒められたものではないからとこちら側は控えていたとしても、相手側はその「やり方」を行使し、それが十分効果的で、そちらのほうが優勢になり、「正しい」ことになることも、充分あり得るのだ。

そんな中でも「正しい振る舞いを取りなさい。そして、時が来るのを待ちなさい」というのは、「お上がすべて見てくれていて、いつか正しい裁きを下してくれる」という、日本人の「お上思想」独特だと思う。同じように「神」を信じている文化圏でも、その対象が(人ではなく)「神」である国の人びとは、現実社会では相互理解のために「相手」に対して必死で言葉を、「やり方」を繰り出す。

だから、我々日本人の「やり方」のためには、ほんとは、その耐えている一般国民の姿に応える、問題を解決する「お上」がいてこそ成り立つものなのだ。相手は、「問題解決」するために、詭弁も使えば「デモ」も使う、ありとあらゆる「やり方」を使ってくる、でも我々は「正しい振る舞い」を強いられる、その我々の苦労に報いてくれる「お上」は政府なのか何なのかは判らないけれど、とにかくそういう存在があって初めて「問題解決」に繋がる「やり方」なのだ。

そして、村上春樹氏のような「大きな声」を持っている人は、その声を、こういうエッセーのような内容を、国内に向けるのではなく、国外に向けて使うべきで、つまり、「お上」にならなければならない立場の人だと思う。僕はまだ調べていないので、村上春樹氏が中国や国際社会に対して、どのようなメッセージを発しているのかは判らない。もし、氏が、我々の「お上」になるようなメッセージを発していないとしたら、それは、「大きな声」を持つ者としての自覚に欠ける、と思う。

そう、戦後の日本というのは、ある意味で、「大きな声」を持つ者が、その「大きな声」を持つ者の自覚を持たず、あるいは敢えて気付かない振る舞いで、そうすることで利得を得続けてきた歴史だったと思う。村上春樹氏のエッセーも、自著は多く東南アジア各国の言語に翻訳され、かつては海賊版が横行したこれらの地域も近年では市場が確立し、緊密な文化交流圏が成立している、と語っているが、自らが「お上」になることなく、我々に忍耐を強いるというのは、自分の経済的基盤の保護を優先していると思うことさえできる。

中国マーケットを無視することは、経済的にはできない。それは重々承知している。けれども、経済的な「痛み」を避けて通ってきたことで、数々の「筋」を滅茶苦茶にしてきてしまったことを、少なくとも僕たち団塊ジュニア世代は知っている。自分たちの親たちが、転向に転向を重ねて「経済」のみの価値観を築き上げてきたことによって。そして僕たちはオウム事件と小泉政権を通過して、大切なもののためには必ず「痛み」が付きまとう、という言説に潜む危険性にも十分自覚的になっている。その上で、僕たちは「正しく」振る舞わなければならないのだ。

なら国際映画祭2012で『不完全な旅』観てきました

河瀬直美氏がエグゼクティブ・プロデューサーを務める「なら国際映画祭2012」に行ってきました。

なら国際映画祭は、河瀬直美氏がカンヌなど世界の映画祭に招待される中で、映画祭の意義を感じ、故郷奈良にその力をもたらそうとNPO法人を設立して2010年に第一回開催を実現した映画祭。河瀬氏はカンヌでグランプリ(『殯の森』)を受賞している奈良が誇る映画監督ですので、もちろん2010年の第一回も聞こえてはいたんですが、なんとなく、「”国際”って言ってもなあ。二回目あったら別やけど」と、正直そう思ってた訳です。而して第三回が今年開催され、これは凄いことだと素直に思いました。

僕が観た『不完全な旅』は、第一回映画祭で最高賞「ゴールデンSHIKA賞」を受賞した映画作家ペドロ•ゴンザレス•ルビオ氏が、その受賞と共に授与された2012年開催で上映する特別作品”NARAtive2012"の製作権で映画を撮影する、その製作過程を追ったメイキング作品。

ペドロ氏が撮影した作品『』を観ずにこの『不完全な旅』を観たのは、ひとつはこの上映には河瀬氏とペドロ氏、メイキングを撮った萩生田氏の鼎談があったからなんですが、『不完全な旅』は映画製作のプロセスをなんにも知らない私にとってもスリリングで面白かったです。「スリリング」というのは、ひとつは主人公もストーリーも何にもなしでいきなり十津川村神納川に来て二週間で映画を撮る、というそのライブ感のスリリング、もうひとつは、メキシコ人作家ペドロ氏のとてもナイーブで律儀で真摯で目に見えて判る”気ぃ遣い”なスタンスと、「100年後?とんでもない、20年、いや10年後にどんなけ家が残ってるか。ほとんどないんちゃいますか」と冷徹なリアリズムを持ちながらも表向きあの奈良特有の突き放したような言葉づかいの裏に潜む”気ぃ遣い”なスタンスの神納川に住まう人びとの、その魂のぶつかり合い。

率直な感想としては、『祈』を観る機会はもうないのかなあということ。それくらい、『不完全な旅』で興味を引かれるものでした。以下、箇条書き:

  • 鼎談でいちばん印象に残ってるのは、ペドロ氏の「日本人は「完全」であることを大事にするから」という言葉。『不完全な旅』というタイトルを聞いて、「自分に何か不完全なところがあったのだろうか?」と心配になったという話をしたときに言ってた。ペドロ氏には日本人はそう見えているというところから、世界から見て日本人がどう見えているかというのに、自分は意外と無自覚であると気付かされた。
  • ペドロ氏の繊細さはすごかった。外国人の繊細さに触れるにつけ、日本人としての繊細さを大切にしないとと思う。
  • なんとなく、奈良南部は(僕が生まれた)北部と気質が違うのかなと思ってたけど、この作品で観る限りよく似ていた。
  • ならまちセンターのスタッフは、奈良でこういう催しが行われたときに較べて非常によく準備されていた。接客に積極的でとても好感が持てました。
  • 対して、ホームページの情報・更新が少し不備が多いのが残念。この映画祭自体も今年が第二回なのか第三回なのかで若干揺らいでいるし、『不完全な旅』の画像もリンク落ちしたりしてる。
  • 司会の方が河瀬氏の肩書を噛み噛みだったのがちょっと。ページでは「理事長」と紹介されてるし、「理事長」で良かったと思う。

 

『情況との対話』

「状況との対話」というイベントがあると聞いて。

4334977030 「語る人」吉本隆明の一念
松崎 之貞
光文社 2012-07-19

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吉本隆明は『情況』という雑誌を発行していた時期があり、1997年に休刊されるまで、雑誌『サンサーラ』に「情況との対話」という連載を続けていた。こういう重複を見かけるにつけ思うのは、「俺も気づかぬままに盗用したり、または誰かの気の利いた掛け合わせに気付かなかったりしてるのだろうなあ」ということ。相当に高いセンスや高度な知識が必要だったりするものはともかく、常識的に流通してそうなことについてはやっぱり最低限として知っていたいし、厚顔無恥でいるような事態は避けたい。

贋作と沈黙

『翼の王国』で偶然に知った、<エマオの食事>。

それが嘘であったことを断罪しているのではなく、それが「ずっと」嘘であったことを断罪しているのだ。それが「ずっと」嘘であったことを、未だに嘘のままで通していることに。通せていると思われていることに。

嘘のままで通す場が、真実を希求することは許されない。審判の場でもまだ嘘のままで通す者に、ハン・ファン・メーヘレンのように一躍英雄に転換するポイントは訪れない。

2012/08/30

交渉力

交渉力のない営業と一緒に仕事をすることほど辛いことはない。何も、物凄くこちらに有利な条件を飲ませてこいというつもりはなくて、きちんとお客様と会話をし、双方の思惑を詰めてほしいということだ。最終的にお客様が何で意思決定を下すかと言えば「納得感」だ。そりゃPCの販売だったら単に価格が安ければ決まるという面が大きいから、価格を最後に出せるかとか、そういう、ある意味「姑息」な技術に長けてることが勝つ条件であるとは言える。

けれど、それは王道ではない。必ず押さえないといけない大前提は、お客様に「納得感」を持たせられるかで、納得感を持ってもらうためには適切なコミュニケーションしかない。この適切なやりとりができない営業は、お客様の上層部にもアプローチができないことが多くて困る。こっちの偉い人を連れていくからそっちの偉い人を出して、というやり方しかできない。そして、連れて行ったこっちの偉い人も意味のある話が出来ず、ほんとうに単なる表敬で終わる。今、いちばん不満を覚えているのはこのことだ。

ニュアンス

私はIT企業に勤めていて、IT企業というのはサポートセンターというのを構えているのが常識。弊社もサポートセンターというのを構えていて、導入後のシステムにおける問題は、サポートセンターに電話してもらうことになっている。しかし問題と言っても幅広く、もともと提案していた内容が、要件を満たさないような構成・仕様だったとしたら、それを伝えられてもサポートセンターの人としては困ってしまう。けれどもお客様からしたら問題は問題で同じで、その内容の性格によってサポートセンターに電話するべきか、営業に電話するべきかを判断するのは面倒、だからいつもどちらかに偏ることになる。そしてサポートセンターの人は、「それは仕様の問題かどうか」というところの判断がシビアになり、少しでもその色が見えたら、「それは仕様の問題なので営業に電話しろ」とお客様に案内する。

今、わざと「営業に電話”しろ”」と乱暴な言葉づかいで書いたが、サポートセンターはお客様にけしてそんな言い方はしない。それはもちろん営業サイドも同じなのだが、先日、必要があってサポートセンターのコールログを閲覧していたら、「営業からサポートに電話しろと言われた」とお客様が仰っている、というログを見つけてしまった。
お客様がサポートセンターに対して、本当にその言葉づかいを使ったのかどうかは、わからない。最初に書いたような理由で、サポートセンターへの電話をお願いしたことが(それ自体は事実)不愉快で、「しろと言われた」と言うふうに実際に言ったのかもしれない。そして、もし「しろと言われた」とお客様が仰っているとしたら、それはかなり重要な情報で、営業サイドとしてはもちろん「しろ」などと言うはずはなく、なのにそうお伝えになるということは営業サイドに対する心象が相当悪化しているという判断材料になる。ところが、サポートセンターはそのあたりのニュアンス情報に敏感ではないことが多い。「連絡してくださいと言われた」だったのを、「しろと言われた」と記載することが、往々にしてあるのである。

 社内しか閲覧しない記録について、どのように記載するかは、効率重視であることが圧倒的に多く、簡潔に記載することを推奨されるが、それは、必要な情報までも削ることを意味しない。 「しろ」と言われたのか、「してください」と言われたのか、どのようにお客様が表現するかは重要な情報で、その重要性に無自覚的なサポートでは、お客様の気持ちをくみ取ってサポートすることはできるはずもなく、勢い、フィールドへの負担を増やすばかりになる。

 これは決して業務上に限ったことではなくて、日常でもどのようなニュアンスでそれを伝えているか、というのは非常に繊細な問題で、言葉は100人の使い手がいれば100人の使い方があるのだから、相手がそれをどういうニュアンスで言っているのかを、これまでの経緯や背景や言外の内容から汲み取っていく姿勢は必要だし、相手がそうしてくれるという信頼に添って、判ってもらいやすく自分の言葉を出していく、という姿勢もまた必要。

余計な気配り

 ずいぶん昔から気に入ってシャツを買っているお店から、オンラインショップがオープンしました、というダイレクトメールが届いて、ダイレクトメールと言っても本当の郵便で、最近シャツを新調してないし、オープンセールで送料無料で返品自由というので、さっそく買ってみた、二着。ひとつはホワイトだけど織の違う生地を交互に入れることでストライプのように見えるシャツ、もうひとつは極細のブルーストライプ。基本地味好き。

 僕は結構腕が長いので、シャツのサイズは慎重になる。袖が足りないのはスーツを着るとどうしても変、かと言って袖で揃えるとやけに首回りがスカスカになったり。そこへ来てこのお店のシャツは、首回りで揃えてもそれほど袖に違和感がないのと、袖丈長めという選択肢があるのもいいなと思いオンラインショップの品揃えを眺め、手持ちのこのお店のシャツを改めて来てみてサイズ感を確認し(同じ店のものと言ってもデザインによってやはり多少の違いはある)、結局、袖丈長めではない普通モノでいける、と普通モノでオーダー。

 ところが、実際手元に届いて着てみると、心なしかやっぱり袖丈が短い…。これは交換するか、と思い、交換の問い合わせメールを打ちながら、到着したシャツを箱から出して開封したときのことをちょっと思い起こす。「もしかしたら、サイズ合わないから返品するかも」と思い、できるだけ丁寧に開封。シャツの襟のところに嵌っているプラスチックとか、たたみが崩れないように入れられてる厚紙とか、留めているプラスチックのクリップとかを外しながら、無料で返品を受け付けるのは大変なことだよなあ、絶対気に入らなくて返品する人も何%かいるだろうし、でもその何%を見込んだ上で無料返品受け付けにしたほうが売上増につながるとシミュレーションしているということだよな、その手法でショップチャンネルとかは大きくやれてるんだよな、とは言うもののこのお店がどのくらいの規模かわからないし、例えばこのシャツを留めているクリップの1つ取っても、無料で交換を受け付けたら同じ売上でそこの部分のコストは2倍掛かってしまう訳で利益圧迫要因になるし、と言ってそんなもの回収して再利用するほうが、ちゃんと使えるものかどうかチェックしたりしてると余計なコストが掛かって余計利益圧迫か、だけどやっぱり少しでもパーツは無駄にしないほうがいいとオレは思う、と思って丁寧に包装を解いて、ひとつ残らず取っておいた。それがこの写真。

一着目試着して交換を決めたので二着目は未開封だったんだけど、問い合わせたら袖丈眺めがあるのは片方だけだったので、微妙な長さだしもう一方はこの長さで着ようと決めて一方だけ交換にしたら、未開封のほうが交換可能だったので、丁寧に包装を解いたほうはそのまま手元に残りました、というオチつき。

省略の究極

信用というのは、省略の別名だ。何故、信用経済が重要かと言えば、詳細な信憑性の確認作業を省略することでスピードを得ることが出来、本質的に「早い者勝ち」の市場経済において、競争相手に先んじることができるからだ。その「信用」できる相手が多ければ多いほど、もう少しニュアンスを含めて言うと知っていれば知っているほど、そうしてその関係図が多対多になり大きなコミュニティを作れれば作れるほど、他者に対して優位に立てる。

もう10年近く前のことか、某地方都市の某公共事業会社に、営業支援で同行したときのことをふと思い出した。私の業務は業界では「プリセールス」と言われる、一般的な企業では「技術営業」と言われる類のもので、要は自社製品を採用して頂くためのテクニカルな説明と提案を行うのだが、その日、説明した相手が情報システム部の部長クラスの方、および部員数名という構成だった。そして、私の「テクニカルな説明」は、部長には通じなかった。ひとつは私の経験不足で、部長に通じる説明というのがどういうものか会得できていなかった、ひとつはそうと自覚していつつも変に概念的にまとめたわかりやすい説明をするのが、当時のIT業界の「キャッチーだけで売れる」という軽薄さに近くてやる気になれなかったこと、もうひとつはどうしても「部員数名」を納得させなければエンジニアの名折れだ、という意識があったからである。

果たして部長と私の会話は行き詰まり、見かねた当地の当お客様担当営業が、私の代わりにホワイトボードを使って何かを説明し始めた。それは単純なITレイヤー-ネットワークがあり、ハードウェアがあり、OSがあり、ソフトウェアがあり、といったレイヤー-を描き、どうのこうのと説明して、今回はこの層を中心としながら包括的に考える必要があると我々は考えております、的な説明をして部長の歓心を買った。

はっきり言って私は鼻白んだが、その時の興ざめ具合とそれを思い出している今の興ざめ具合は微妙に違う。あの部長は、あのお客様担当営業を信用している。であるが故に、担当営業の話を部長はすんなり得心する。それは負け惜しみではなく、よく知っている間柄だからだろうという安直な批難でもない。いったい、誰が、何を、どの程度の深さまで知っているべきなのか。今、ITの世界で再び起きている「省略」の席巻は、このことを改めて考えずにはおれない。クラウドとは、信用の権化であり、省略の究極である。クラウドは法人と個人のいずれをも巻き込んで突き進まざるを得ない。そして、コンスーマーで起きていることと、企業で起きていることは関連しないと暢気なことを言う人が、非IT業界の人でもほとんどいるはずがないと思えるほど、最新テクノロジーの発生の現場は混濁してきている。ということは、不用意に最新ITに加担したコンスーマー=一般個人である我々の振る舞いが、企業というより大規模な経済活動に影響を波及させることになる。

何が信用できて何が信用できないかは、そんなに簡単にわかるものではない。そこにかける時間を惜しむことが風潮を超えて常識のように言われ出したとき、必ず何かが軋みだしてきたのだ、歴史において。