1/17

今年は、1/17ということを一切書いたり語ったりせずに一日を過ごしました。

もちろん、1/17という日を忘れてる訳でも、忘れたい訳でもありませんが、去年、3/11があって、1/17への感覚が少し変わりました。

というのは、僕は今関西に住んでいますが、1/17を経験したとは言い辛いからです。

当時、僕は三重県に住んでいました。大学四回生で、卒論の提出に追われていました。確か、締切3日前とかそんな時期だったと思います。朝4時くらいまでワープロ(懐かしい)を打ち続け、目途が立って、やっと一眠りできると思ったら強めの地震が起きて、「頼むから寝かせてくれ!」と布団を被りました。翌日起きてみたら、母親が「えらいことになってるで」と言ってテレビを見させました。

三重は、大学のあった津の県庁の窓ガラスが全部割れた、というニュースくらいだったと思います。大きな被害はありませんでした。もちろん僕もなんの被害も遭ってないのですが、その年に社会人になり大阪に出て、一年間はいろんなところで惨状を目の当たりにしました。阪神高速の崩壊は今もまだ目に焼き付いてます。

関西に住んでいて、1/17を振り返るというのは、特別なことなんじゃないかと思います。人によっては前向きに語るでしょうし、人によっては深刻に語るでしょうし、人によっては軽く語るかも知れません。でもどんな人にとっても多分特別なはずです。それを、コテコテの関西弁を喋るしキツいツッコミもするけれどもその当時関西に住んでおらず経験していない自分が、1/17について振り返るというのは、何か違和感を覚えたのです。3/11があって、それをあんまり「自分事」として捉えてるようにはみえない関西に住んでて。

どんなに真剣に1/17を考えたとしても、あの日被害にあった方々から見れば、やっぱり僕のやってることというのは「余所事やってる」ように見えるのかなと。だったら、1/17について、大袈裟に振り返るような姿勢そのものをやめてみたほうがいいのかも知れない。そう思ったのです。

臥龍坊!

雑誌で見かけてずっと行きたかった「臥龍坊」に、行ってきました!「ウォロンファン」と読みます。

元は三条通りで営業されてたそうです。それこそ何度も何度も行ってるのに全然知らなかった~。

紹介されてた記事で、イートインが2席だけある、ほぼテイクアウト専門のお店と書いてあって、「買い食い」店の大好きな僕は行きたくてしょうがなかったのです。

店頭に立っておじさんとお話してたら迷い始めて、そしたら「寒いから中に入って待ってください~」と言われてお店の中に。看板の台湾バーガーと、併せて酸辣湯麺を買おうかと思ったんだけど、店の名前のついてる臥龍麺を見つけて「これどんなん?」と聞いてみたら、

「醤油ラーメンと思ってもらったらいいですー。3度味が楽しめますー。」とおっちゃん。

「3度ってどういうこと?」と聞いたら、

「最初はそのまま食べて、1/3ほど食べたら豆板醤入れて食べてもらって、また1/3食べたら最後はお酢を入れて食べてもらいます」とのこと。豆板醤はつけてくれるって。

食べ方の説明写真(笑)。
これしかない!と買って帰りました。

台湾バーガーは「割包」、具の豚角煮の油分のとろけ具合とか舌触りとかも抜群で、さらに外皮の饅頭が凄く美味しい!弾力があって食べると跳ね返ってくる。そしてほんのり甘い。これはファンになります。

臥龍麺は、麺が太麺でとてもやさしい味です。辛いの大好きなんでさっさと豆板醤入れようかと思ったんですが、ベースのスープがあっさりしてるのに旨さをしっかり感じられるスープで、そのまま食べきってもいいくらいおいしかったです。

ええ店みっけた。


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Training for 若草山ヒルクライム#01

楽しさだけがゴールでそれが満足の人生なら要らない。

誰かの不幸せの上に成り立つ生活(くらし)
昔から気づいてるよ 

若草山ヒルクライムの出場を真面目に決意したので、トレーニングも真面目にやろうと決心。

ヒルクライムのためにはどんな練習が必要か?と調べ考えてみたけど、やっぱり基本に戻って心拍だろうと。特に若草山ヒルクライムは距離にして3.4kmと短距離決選なので、どれだけ心臓が強いかが重要と思われる。

なのでインターバルトレーニングを中心にしようと思いましたが、時間のあるときはできるだけ長い時間乗って地足を鍛えることに。

このペースであれば以外といつまでも回していられる感覚。次回、30分回せる際はもう1段階ずつHRレベルを上げてみよう。

トレーナーの負荷を上げるのも有効のようなので、インターバルトレーニングの際、活用しよう。


YouTubeでどれだけ探しても、『okay』のPVがないんだよなー。

B003UIUBT4 Hadou
稲葉浩志
バーミリオンレコード 2010-08-18

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誰ひとり 待ってはいない
それを 知っていても
大事なこと 感じてみたい
だから 行ってみよう 

そしてそれは、楽しいことだけではないはずだ。 楽しくなくても、大事なことがあるはずだ。

ごめんで済んだら警察いらんのじゃ!

警視庁失態 平田容疑者を“門前払い” - 社会ニュース : nikkansports.com
同庁は応対に問題がなかったか詳しい経緯について調べる方針。警視庁管内をはじめ、全国の警察署では平田容疑者の等身大ポスターを入り口などに掲示している。平田容疑者を“門前払い”してしまうなど緊張感の欠如を象徴する事案の発覚で、関係者の責任問題にも発展しそうだ。

指名手配犯の出頭を「見過ごす」という大失態なのに、追及を続けるマスコミはほとんど見かけない。この記事を探し出すのにも随分苦労した。今日は広島から受刑者が脱走というニュースもあり、社会の治安と国民の安全を守る警察機構の怠慢ぶりに危機感を募らせ、厳しく指弾しなければいけないと思うのに、あっさり扱わなくなっている。

「警察がどれだけ失敗しているか、という情報を流すほうが、一般市民の不安を煽り、かつ、犯罪を志向する者に、実際に犯罪遂行の一歩を後押ししてしまう」というような理屈は、尤もらしそうで本当に単なる怠慢のための言い訳でしかない。警察というのは、「万に一つの失敗も許されない」使命なのだ。最近、どこかで聞いたことがある。そう、原発に対しては「万に一つの失敗も許されない」と朗々と読み上げるのに、なぜ警察に対してはその姿勢が取れないのだ?

知らせないことが、事を穏便に済ませられる秘訣だと考えるような社会が、発展繁栄する訳がない。自分たちの住む国は、世界にも稀な凶悪テロの指名手配犯の出頭を見逃すような警察が治安維持の役割を担ってる国だという自覚は、そして、それを粘り強く指摘し続けることはマスコミの役目ではないということになっている国だという自覚は、持っておくべきだと思う。

Take me out of the rain

please don't say
It's too late 

このどうしようもない憂鬱が過去へのベクトルから来るものだというのなら
今度という今度は行けるところまで浴びてやる

In this town,
People don't care for thier neighbors 

畏怖の根源

昔のことだけ輝いてる そんなクラい毎日は過ごしたくない

十代の終わり、ある時点から、「死ぬ一秒前の自分」が突然いまの自分の前に思い浮かべられるようになって、それがやってきたときは悲鳴をあげるくらい怖くなる。

それがやってくるのは寝入りばなが多い。もしくは眠いのを堪えているとき。どうやら睡眠と深く深く関わっている。今、こうやって「死ぬ一秒前の自分」を思い浮かべても恐怖はやってこない。

今まではその恐怖は、「死ぬ一秒前の自分」という、「未来」に向けてのものだったのが、先日、遂に、「過去」に向けて感じてしまった。

眠気を堪えていたとき、大学生の頃を思い浮かべて、「あれからもう20年も経ってしまったのだ」という恐怖。

この恐怖の大事にする方法を、未だ僕は知らないけれど、大事にしなければいけないことは判っている。

淋しそうに太陽が沈んでも
君は今もきっと笑っている 

根性無くても言える

ハイテク進み、心の豊かさ遅れるわが国の
如何ともし難いところ なんてどうでもいいか
いやいやよくないな 

あけましておめでとうございます。
目下ご覧頂けていた確実な実績1名様というブログですが、今年も飽きずに続けます。
よろしくお願い申し上げます。抱負なんて、書きません。
強いて言えば、今年は「書く」に拘ろう。

おいしい匂いに敏感なのは才能だけど
節操ないのは 厚化粧よりぜんぜんいやだ 

20年近く前に、もうこんなこと言ってたんだなーB'z。凄いなやっぱ。
20年経った今も、なんも変わってなさそうですよ、心の豊かさ。
新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう? 
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?

根性無くても、言えるんだよ。 

OUT OF CONTROL 思うようにはいかないよね
DON'T YOU LOVE ME? これが住み慣れた街だ 

B00005F5A7 RUN
KOHSHI INABA B’z
BMGルームス 1992-10-28

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与える元気

マニュアル・ライフのアニマル ナビゲートされてハッピー
カウンセラーのささやきはOK 

 

「言葉は時代とともに変遷するものだから、使われ方の変化にあまり目くじらを立てるのは」というのは基本的に賛成で、「ヤバい」がとても良いという意味で使われるようになる流れもわかるし、「凄まじい」の出発点「すさまじ」が今使ってるのと意味が異なっているけれどその流れもわかる。だけど、変わって行く過程でもちろん落としてしまっている意味とか意義とかニュアンスはもちろんあって、それが許容できるのとできないのがある。「ヤバい」は許容できなくないけど、言葉の使われ方で今まで最も許容できなかったのはこれ:

大変お求めやすい価格となっております

なんでこれを聞いた客の立場の人が、誰も腹を立てないの?「お求めやすい」って、売り手が言うのって失礼だと思わない?「お求めやすい」だよ。「こんなけ値下げしたら、手持ちの少ないあなた方でも買えるでしょ」って言ってるのと同じ言い回しなんだよ。ここは「お求め頂きやすい価格となっております」と、「頂く」を入れて然るべきだと思う。

ところが最近、この用法以上に、気に入らない用法の言い回しを頻繁に聴くようになった:

皆さんに元気を与えられるように、精一杯頑張りたいと思います

元気を「与えられる」?何様だオマエ?立場が反対なら、「与える」という言葉を使っていいと思う。「元気を与えられました」のように。でも、自分が誰かの何かに貢献することを、貢献したいという気持ちがあるからと言って、「与えられる」と直裁に言うのはどうにも神経が行き届いてない感じがする。自分が「する」ことを、自分が「する」とそのまま言ってしまうところに、無神経さを感じるし、「与える」というのはどう考えても上から目線。普通に、「皆さんに元気になって頂けるように頑張ります」でいいじゃないか。なんで「与える」「与えられる」なんて、モノのやり取りみたいな言い回しが普通になってしまったんだ?これ、主と客は、自分と誰かの関係では実はイーブンではない、ひっくり返したらそのままひっくり返る訳じゃないんだよ、という、人間関係の基本が判ってない人が増えたからのような気がする。悪しき対等主義。

ダブルブッキング-ライブとボランティアでライブを優先させること #jbnsgt3k

楽しみにしていたピロウズ@なんばhatchの日に、社内東日本大震災ボランティアツアーが開催されるというお知らせが来た。

ボランティアツアーの内容は、PCのセッティングと簡単な操作説明を行うというもので、土日の二日間。移動のため金曜から出発で、金曜に関しては社内のボランティア休暇制度を使える。東京出発で、東京からの交通費は会社が手配するけれど、東京までは自費負担。

こういう業界にいてるので、PCセッティングと操作説明でボランティアできるなんて願ってもないチャンスだし、東京への往復交通費は自分で負担しても全然構わない。いつも「ボランティア」というと、片づけとか炊き出しとかそういうのが浮かんで、行ければ行きたい、というような気持ちだったんだけど、普通の人よりは自分はうまくその作業を提供できる、という、行ってみれば「役に立てる」という内容なら、それがこんなに力強い気持ちに発展するんだということを初めて知った。

けれど、ピロウズのライブと日が重なっている。

これはかなり考えた。かなりかなりかなり考えて、ピロウズのライブに行くことにした。

ボランティァは自分の生活を犠牲にするようなものであってはならないとか、被災者ではない自分は自分の日常を生きることが復興を支援することになるとか、消費を行うことこそ経済を動かし復興に繋がることだとか、今まで聞いたことのあるロジックは全部頭の中に駆け巡ったけれど、そのどれも、実際に自分にダブルブッキングが起きたときに全然助けにならなかった。

決めたのは、ピロウズが好きで、ピロウズのライブを楽しみにしているから。これが嘘ではないから。単純にそういうことだった。

このブログのポストはfacebookにオープンしてるし、読んでもらうのが恥ずかしかったり気恥ずかしかったりすることは極力控えてるんですけど、この悩みのいきさつは書いても悪くないかなと思いました。

B005RY38EE エネルギヤ(DVD付)
the pillows
avex trax 2011-12-07

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大阪市長選に思う

僕は大阪府民でも大阪市民でもないので明日のダブル選に直接は関係ないのだけど、働いている主戦場が大阪なので、もちろん強い関心があります。ダブル選が確定して以来、大阪市長は橋下氏がよいのか平松氏がよいのか考えても考えても長い間自分の結論が形作れなかったのだけど、やっと結論が出せました。

僕は、橋下氏が市長に選ばれるのが良いと思う。

その理由はこう:

まず、その主張や行動で賛成か反対かを論じやすい候補は橋下氏。

  • 大阪都構想。
  • 大阪市職員の給与削減等の財政再建策。
  • 「独裁」。

大阪都構想は、僕にはどうも「帝国主義」のように映る。大阪府知事としてやってきて、どうにもお金が足りないから大阪市を取り込もう。そういう発想の行動に映る。なので、この時点では橋下市長はいかがなものか、と思っていた。

けれど、それを受けた平松氏の対応も頂けなかった。橋下氏が大阪都構想を提唱するに至ったスタンスはともかくとして、大阪都構想のような変革を真剣に検討しなければいけないくらい、大阪の地盤沈下は著しいし、確かに大阪市職員の待遇が問題になったこともある。なのに、平松氏はその問題には表だっては触れなかった。なぜ、「大阪市」が「大阪市」のままでいいのか、その理由を語った場面はほとんどなかった。「だって昔から大阪市やんか」くらいのことしか言ってない。要は、「みんな仲良くやりましょうや。そんでええやんか。」ということだ。

これがやっぱり曲者だ、と思ったのです。

確かに、橋下氏のラジカルなやり口は、問題点も多々あると思う。教育施策に関するスタンスなどは首を傾げる部分もあるし、職員給与削減についても、大阪市職員ではない一般市民からすれば溜飲を下げるようなところもあるだろうけど、それが誰も幸せにしないことは薄々判っている。給与削減で財政に余裕ができても、そのお金で大阪市の景気回復に有効な手立てが打てるとは限らないし、収入が減少した人数が多ければ多いほど、短期的には消費が落ち込むのだ。だから、特定の誰かを狙い撃ちするような政策に、どんなにカタルシスを覚えても、安易にそれに乗っかることは、ゆくゆくは自らの首を絞める、そのことを僕たちは近年学んだところだった:

小泉政権時代だ。

小泉氏と橋下氏はよく似ていると思う。そのアメリカ的な競争至上主義的発想、「公」を敵とする手法、そして「独裁」。小泉氏の政治の成果は賛否両論がもちろんあるけれど、「公」を敵にしても競争を煽っても、国民万人が遍く好景気を感受できる社会は構築できないということを経験した。

そして、橋下氏が市長に選ばれることに警戒感や否定の意志はほとんどが、その「独裁」を徹底的に批判する。こういう状況では、強いリーダーシップを持っているように見える誰かを選ぶ傾向がある、でもそれは独裁政治への道を開く、まるでいつか来た道ではないか、あの太平洋戦争への道を開いたときのように。だからこの選挙で、日本に独裁政治の先例を作ってはいけいない。

この論点に随分悩んだ。確かにその通りなのだ。確かにその通りなんだけど、遂に僕はこの論点に肯んずることができなかった。

それは、「この論点を持ちだすのは、ほとんどが60歳を過ぎた高齢者ばかり。しかも、戦争を体験などしていない世代ばかり」だからだ。

彼らには結局、それほど時間が残っていない。だから、とにかく自分達が死ぬまでの間は、このままにしておいてもらうのが彼らの利益にいちばん叶ってるのだ。だから、変化を好まない。「ええやんかこのままで。なんで変えなあかんのん。」これに乗っかって適当にアメなめさせられて、その裏でもっとでっかいアメなめてるヤツらがいて、ずるずるやってきてにっちもさっちもいかなくなりつつあるのが今の大阪だ。

例えば年金。マクロ経済スライドの厳格適用を、高齢者側から求める声というのは終ぞ聞いたことがない。聞こえてくるのは「ただでさえ少ない年金やのに、これ以上減らされたてたまるかい」という、いかにもさもしい声だ。しかし、ルールはルールだし、このままでは団塊ジュニア世代が年金受給世代になる頃には年金財政が破綻することは数字上明確になっている。それでも実行に移さないのは、第一には選挙になると年金受給世代のほうが意見が統一する上に投票率も高いから、第二には高齢者がマクロ経済スライドの厳格適用を自ら求めるほどに「成熟」していなからだ。

僕たちは「お年寄り」の幻想に惑わされてきた。僕たちが持っている「お年寄り」のイメージは、もう20年も30年も前のもので、その当時の「お年寄り」は尊敬すべき対象だった。年を多く取っている分だけの知見があり、精神性があった。今の「お年寄り」は違うのだ。これだけ、国家的な財政危機が叫ばれていても、ルールとして決まっているはずのマクロ経済スライドをいっとき無効化し、それをずるずる引っ張り、そしてツアーでやれ九州新幹線だ韓国だと旅行に出かけるような、そんな「非成熟」の人間の集団なのだ。

とてもじゃないが、「みんな仲良くなったらよろしいですやん」で、何かが改善されることは望めない。なぜなら、そう言ってる連中は、残り時間が限られていて、「自分が死ぬまで持ってくれたらそんでええ」というのが根底にあるからだ。お年寄りというのは、長年培ってきた経験と知恵で、ここぞというときにここぞという貢献を社会にしてくれるものだというのがある。例えばそれを、この不況下で具体策として出すならば:

  • 引退高齢者の低給与での再雇用。年棒200万前後で勤務。

こういうことを言いだすのなら、僕は「高齢者」の意見に耳を傾けてもいいと思う。スキル・ノウハウとして高度な能力を持った「戦力」を、安価で企業は導入できるのだ。大きな経済効果が見込める。しかし、そんな声は聞いたことがない。「オレはこんなけやれる。若いもんには負けへん。なんで安い給料で働かなあかんねん。」そんな声しか聞こえない。社会に貢献しようなんて気はさらさらない。

読売巨人軍の例を引き合いに出すまでもなく、老害というのはかくも解消し辛いものなのだ。「独裁には注意せよ」という金科玉条を振りかざされても、どちらかというとその振りかざしのほうこそ警戒しなければいけないということに気が付いた。結局、この問題に関しては、日本ではエボリューションは望めない。レボリューションしかないのだ。もう、随分僕たちは待ってみたと思う。高齢者が高齢者らしく成熟するのを。そして、無理だったのだ。

それに、もし橋下氏の市長に何か問題があるとすれば、国政とは違い、よりリコールしやすいのが地方政治なのだ。もしそこに独裁が見えたとしても、何を恐れる必要があるというのだ?却って「国政にもこのような民意反映制度を」というトライアルにすらなるかもしれない。

ひとつ、小泉政治のときと違うこと。あのとき僕たちは、その「既得権益者」と戦うことを、自分達ではなく、別の世代-正にその既得権益者と重なる世代のひとり-に託した。今回は違う。橋下氏は僕たちと同世代であり、もう僕たち自身でやるしかないのだという覚悟を持ったのだ。