「中年も自転車にのって」の続き

先週、名古屋まで観に行って観てこなかった少女は自転車にのって』を観に京都シネマに行ってきました。今回は電車で。

「自転車は自由の象徴」と語ったというサウジアラビア初の女性映画監督ハイファ・アル=マンスールの言葉に観る気で頭がいっぱいになっていたので、それ以上詳しい情報もストーリーの詮索もしなかったのですが、純粋に観てよかったなと思った映画でした。映画というものをほとんど観ないので、単純なストーリーでも映像でも感激できるのですが、この映画はひとつはほとんど何も知らなかったサウジアラビアの習俗の一部を知れたこと、もう一つは主役のワジダ役の女の子がすごくかわいいこと、この二つがあるのでよく映画を観る映画好きの方でも楽しめると思います。「女性」映画監督というだけで話題になるくらい、この現代において男尊女卑を貫いているサウジアラビアで、その因習に抗う少女、だけではなくその母と友達のお話。国の体制に立ち向かう彼女彼らを観ると、日本社会で文句をつけていることが情けなくなりました。そして、監督が言ったようにまさに「自由の象徴」として自転車で駆け抜けるワジダの姿は、自分の自転車に対する想いを再確認させてくれました。最近、あれやこれやと本筋から外れたところに目が行ってしまってた気がしました、私が自転車に乗りたいのは独立独歩の自由を生み出せるから。もっと乗ろうと思います。

ネタばれしない範囲で面白かったところをいくつか:

  • 家庭内で普通にプレステでゲームしてたとこ。どころか、コーラン学習ゲームみたいのが売られてて、主人公がそれで勉強するところ。
  • とにかく何でもお金!「泣き止んだら5リヤル」にはびっくり。
  • ラスト近くで、ワジダのお母さんがワジダを連れて、病院で働く親戚のところに行ったシーンがよくわからなかった。

映画の公式サイトにはサウジアラビア基本情報が纏められているので、これを見てから鑑賞したらわかりやすい部分があると思います。京都シネマで2/7まで、シネリーブル梅田はとりあえず今週中は上映しているみたいです。


映画までの間、COCON烏丸界隈を散歩してたのですが、六角通・東洞院通はこんな風に歩道・自転車道・車道が線引きされてるんですけど、自転車乗る人間としてはこれでは正直迷惑な感じかもな、と感じました。この辺、やたらと路肩に駐車してるのもあって。いちおう、歩行者と運転者に「自転車というものも通るんだよ」ということをリマインドしてくれるという利点はあるのかなと。


で、ミディ・アプレミディという洋菓子屋さんに。目当てだけれども持ち帰りはないと思っていたフロールが持ち帰りできるようになっていて、代わりに買おうと思っていた缶入りサブレは要予約で買えなくて、おまけに1Fの店舗はこの日で最後の日(2/13から2Fで営業)と、相変わらず自分の「引き」の強さとギリギリ具合にちょっと苦笑。ただ思いがけず買って帰れたぐりおっとチェリーのフロールは、思いがけずしっかりとした生地にバターの風味が感じられる美味しいロールケーキでした。

久し振りにわずかの時間だけど京都に遊びに行って、ちょっと京都いいなあ最近、と、何がそう思わせたのか分からないけれどそう感じる気配みたいなのがあった。どうしても奈良にはないあの気配、何が奈良にはないのかと言われたら、やっぱりそれは「文化」なんだろうなあ。ちょっとしばらく京都に足を伸ばしてみようかなあ。

市長選に際して② 生駒市立病院建設問題

今回の生駒市長選を考える際、絶対に避けて通れないのが市立病院建設問題。

市長選を前にするまでもなく、市立病院建設に関して関心があまりない生駒市民は少ないのではないかと思います。2005年に市立生駒総合病院が閉院して以来、総合病院建設は生駒市政の重要テーマの一つであり続けました。生駒総合病院が閉院する、ということを知った際、総合病院がなくなるなんて、という漠然とした不安を覚えました。しかしながら、それから8年、大きな病気をしていないとは言え、総合病院がなくなったことで何か不都合があったか、と言われると、そうでもないな、という感覚があるのも事実。生駒市には近大奈良病院、倉病院、阪奈中央病院等々の総合病院があるし、県立奈良病院にも車で20分程度で行ける。一体何のために、市立の総合病院が必要なのか?というぼんやりとした疑問はずっと抱いていたと思います。

そこでまず市立の総合病院を必要とするポイントを調べてみたのですが、生駒市のHPでは一目でそれが判る内容はありませんでした。ネットで調べてみると、まず最初に見つかるサイトの中で最もよく纏まっていたのは東洋経済オンラインの記事でした:

足りないのは、「救急医療と小児科、小児救急医療が課題」(生駒市議会関係者

これは確かにその通りだと思います。救急医療は奈良県全域で課題に挙げられ取り組んできている課題ですし、小児科に限らず対子ども政策に関しても一層の充実が必要、という状況です。もうひとつ言えば、対子ども政策が他の市町村に比べて見劣りする理由はおそらく一にも二にも財政上の理由で、高齢者を優遇して更に財政を逼迫させて子ども政策が更に貧弱になるような、生駒の未来を潰してしまう、国民健康保険税引き下げを公約に掲げる候補には断じて投票できません。

総合病院の必要性という視点ともう一つ、避けて通れないのは指定管理者が「徳洲会」であることの是非とその経緯です。まず経緯については、公募期間が2週間という短さだったという点が疑問点になります。この時点でめぼしい候補者が不参加になっている中で、2週間の公募期間でどれだけの団体に情報が行き届くのか、という疑問がありますが、それでも市立総合病院が必要不可欠という状況であれば認められるでしょうが、先に書いたように、総合病院というよりは救急医療と小児医療が課題。確かに徳洲会病院は救急車受入件数が国全体の3%という規模ですが、この数字だけで、徳洲会病院が救急受入に積極的か、また救急医療を得意としているかどうかは判断し辛いです。病院数が多ければ、自ずと割合もあがると思われるからです。よって、この視点で言うと、同じ予算を掛けた場合、市立総合病院の建設と、既設病院に対して救急医療を請け負う際の補助とで、どちらがより費用対効果が高いか、という視点から判断せざるを得ないと思います。

もうひとつ、「徳洲会」の指定管理者としての適性性という視点があります。徳洲会は徳田毅衆議院議員の関わる公職選挙法違反事件で捜査を受けている状況です。毅議員が受け継いだ地盤を築いた、父親の徳田虎雄前理事長は自身の選挙戦時に、「カネが乱れ飛んだ」と平然と記事で書き記されるほどの選挙戦を実施してきたようです。生駒市の広報誌では、

この「適性性」は、市立病院の運営を委ねるものである以上、基本的に病院運営や医療行為について判断すべきものです。

とあるのですが、虎雄氏は病院運営にあたり政治も必要と考えたからこそ出馬したのであって、徳洲会にあっては病院運営・医療行為に政治は必要不可欠なものであったと考えるのが妥当だろうと思います。公職選挙法違反の有無はさておいても、理事長が国会議員であることにより病院運営にプラスの効果があったことを否定するものではないと思いますし、公職選挙法違反容疑に限って言えば、対価を支払って病院関係者を選挙対策に借り出していた訳ですから、病院運営と政治活動は不可分であったと見做すのが自然だと思います。

そうした場合、公職選挙法違反容疑で逮捕者が出ている状況で、病院運営に支障を来さないのかと言うと、これは徳洲会と取引のある会社なら誰しもわかることだと思いますが、某かの滞りは確実に出ている状況です。プロジェクトが一括して一時凍結になったような例は少なくないと思います。その結果、徳洲会全体での資金フローがどのようになっているのかまでは調べられませんが、最新号の広報誌では、徳洲会と基本協定書が締結できたという文言はありません。最悪の場合、徳洲会側の都合によって、白紙撤回される可能性だってまだあると思われます。

この問題は考えるのが非常に難しく、市立総合病院の必要性を鑑みると、市側は引くに引けなくなって、適性性についても強弁しているような印象が拭えないのですが、判断基準としては現状ではやはり、「徳洲会が最悪でも現状の条件のままで市立総合病院を運営していくことをコミットするか、コミットさせることを公約できるか」ということになると思います。市が負担する借地料年間5,400万円を異なる使徒に支出した場合の効果と合わせて考えることになるかと思います。この課題は、病院建設中止、で済む課題ではないので、単に「建設中止」を掲げるだけの候補者に対する評価はやはり低くならざるを得ません。

「売りやすい」お客様

「売りやすい相手に売る」のは商売の基本。これに対して異を唱える人は商売しないほうがいいと思うんですが、じゃあ「売りやすい」という定義は?という問いに対する答えで、自分の商売人としてのレベルが測られるような気がする。

私にとっての「売りやすい」は、「話が通じる」ということだと思う。

システム提案の世界では、提案内容はもちろん一番重要だし成約のための必須条件ですが、残念ながら成約に至るファクターに占めるポーションは最大限多めに見積もっても25%くらいではないかと思います。多くの商談の場合、過去からの付き合いや、トップ同士のリレーションや、提案内容に関わらず絶対価格などが大きく関わります。多くの会社があるなかで通常お客様は2,3社を選んでコンペさせる訳ですから、この時点で成約のためのかなりのファクター(スタート地点に立てる、という意味で)が、「過去からの付き合い」で占められている訳です。

そんな中、この25%部分の確率を上げるべく提案構成をいくつも考え、比較検討し、ブラッシュアップしていくのですが、ここで複数案準備し理由付けをして説明した内容に対して会話をしてくれる、つまり「話が通じる」お客様がいちばん売りやすいです。お客様にはいろんなタイプがいますから、例えば「こちらがほしいと思っているものを見抜いてこい」みたいな方もいる訳です。もしくは、「買ってほしいならその額以上に汗水流さんかい」という方もいる訳です。そういったお客様はロジカルにベストな提案まで持っていく話が通じないので売りにくい。

話の通じるお客様は概して非常に厳しい。ご自身もよく勉強されている方なので、たいてい、初回の提案はこちらが歯が立たないことが多い。そこでの会話を踏まえて、先方の期待を上回る内容を考える。こうやって提案活動を繰り返していくことがもっともやりがいもあるし自分のスキルにもつながるし何より「売りやすい」。逆に、売りにくいお客様でも、業績好調な企業だからとかの理由でセールス攻勢を掛けるスタイルがありますが、一概には言えないですがなんでそんな時間の無駄な使い方するのかと思う。たいていは単なる根性主義です。大した分析ができていない。

しかしながら、たいていの営業はこういったことを理解してかせずか、提案以外の75%でどうしようもないところを提案内容で挽回することを期待します。そういう営業を見るたび、ウブだなあと思ってしまいます。

市長選に際して① 国民健康保険料引き下げ?

我が市で月末に市長選があるのですが、どの候補者のビラだったか忘れましたが、「高すぎる国民健康保険料を引き下げ、やさしいあったか市政!」みたいなことが書かれていました。

「ん?」と当然思ったので調べてみました。

これまでの我が市の国民健康保険財政を大まかに掴むと、

  • 国保財政規模は約100億円で、平成15年から約3.5億円増加している。
  • うち医療費給付額は約79億円(H24)。
  • H20年度に国保財政調整基金がゼロになり、H20年度・H22年度に保険税上げを行い黒字化。一般会計からの借入も返済(http://www.city.ikoma.lg.jp/kashitsu/04200/04/documents/0202.pdf)。
  • しかし国保財政に占める保険税収入の割合は恒常的に1/4。国・県・市からの補助金に1/4を頼っている(http://www.city.ikoma.lg.jp/kashitsu/04200/04/01.html)。
  • 一人あたり医療費給付額は32万円(H24)。国民健康保険加入者数は市民の約22%。

私は会社員なので、国民健康保険の財政のために市税が流用されないかをチェックしたいと思います。市税は国民健康保険の恩恵に関わらない我々も支払っているものなので、それが転用されるのは所謂「受益者負担の原則」に反すると言える訳です。

まず、国保財政に対する「国・県・市からの補助金」が全体の約25%、25億円を占めています。詰まるところこれは税金なのですが、国保財政の来歴のページで、「一般会計からの借入も返済、黒字化」と書かれていたので、現状、一般会計からの借入はないものと認識します。この「国・県・市からの補助金」は法律上定められている補助金で、別の角度からみた公平性を期すために已むを得ない税金の転用と理解します。

次に、では国保税を引き下げて、その分の財政をどこから持ってくる?例えば現在、国保税収入で賄えているのは国保財政全体の1/4である約25億円。仮に国保税を1/4引き下げます、とすると、単純にこの国保税収入は約1/4に、つまり18.75億円となり、6.25億円不足する。この6.25億円の財源をどこで確保する?

http://www.city.ikoma.lg.jp/kashitsu/04200/04/01.html によると、国・県・市からの補助金以外に、「退職者医療の交付金」「他の健康保険からの交付金」というのがあります。この2つで国保財政の1/2が賄われています。この「他の健康保険からの交付金」の「他」が何で、それぞれどの程度の額なのか、それが何に基づいて決められているのかが調べきれないのですが、交付金なので市政側で額を変更できるものではないと思われます。

そうすると、国民健康保険税(料)を引き下げるための財源約6億円は、

  • 医療費給付を抑制する
  • 一般会計から借入れる

のいずれかの方法での捻出になります。生駒市の国保医療給付額の増加の主たる要因は「医療費が高い高齢者率が高い(65歳以上の率が37.2%で県内市1位)」、つまりこの層の多くは定期収入を得ていないでしょうから、市税の使われ方、つまり一般会計に興味を持たないとすれば、この政策は「ひとかたまりの投票集団を狙った」政策だと思われます。

よって、医療費給付の抑制策を伴っていない限り、会社員であり国民健康保険に依存しない私としては、この政策を掲げる候補者は支持しないのが妥当と考えます。

「話せばわかる」「問答無用」2014年版

 選挙権を持ってからこの方国政選挙では、僕はなるべく「日本の将来にとってどういう政策が、よりよい政策か」ということを、割と真面目に考えて投票していました。もちろん、僕の知識と知能では考えられる内容には限界がありますし、その時々の選択が正解だったのかどうかはまだわからないほうが多いです。これは感覚ですが、僕が属する団塊ジュニア世代で投票する人の多くは、割とナイーブに真面目に、「日本の将来」にとっての是非を考えて投票する人が多いと思います。

 これは、「自分の立場だけではなく、いろんな立場を理解しようとする」スタンスを強いられます。「日本の将来」を考えるのであればそれはそうです。自分より10歳も20歳もそれ以上も若い方々が生きる時代のことも自分が考えられる範囲で考え、答えを出さないといけないからです。

 だから、「痛みを伴う」と言われてもそれが必要なら、というスタンスを取ったり、「消費税増税が必要」という意見にも耳を傾けたりしてきたのです。

 でも、今の安倍首相の動きは、「相手の意見なんて聞くだけ無駄だ。自分たちの主張を声高に叫ぶのが一人前の国家だ」と言っているようです。特定秘密保護法案しかり、靖国神社参拝しかり。靖国参拝に関して、歴史認識の誤謬の可能性を持って靖国参拝を正当化するような言い方をしている人もいるようですが、誤謬の可能性を認めるなら、「歴史」に真実はない、「歴史」というのはあくまでそれぞれの現在の立場から見たストーリーなのだから、それを踏まえた上で自分たちの振る舞いが相手にどう捉えられるのか、という視点がなければ、自分たちの主張を通すことはできない、とわかるはずなのに。

 安倍首相の言動は、相互理解など無駄と言わんばかりに感じます。確かに僕たちもこの20年間、自分たちにとっての損得だけではなく、国全体の損得と将来を考えてきても国の借金は一向に減りませんし、もうこれ以上、違う立場のことを考えても仕方がないと思うようなところまできた感があります。どうせ国が改善する気がないのなら、消費税をこれ以上上げてもらうのは困る。法人税を引き下げてもらうのも困る、法人税を下げたところで給料が上がるかどうかも分からないしその財源に消費税アップをあてこまれても困るので反対、高齢者の医療費負担は即刻現役世代と同じに、年金のマクロ経済スライドも即時発行。結局、それぞれの立場が自分の立場が得をすることをそれぞれわーわー騒ぎあうのが最もよい結論に進める方法なのだよと、安倍首相は態度で示しているのだと思います。

 問答無用。そう、5・15事件の「問答無用」。「話せばわかる」と言った首相は「問答無用」と殺され、その後の展開で、岸信介は満州国の中枢部に君臨。安倍首相は岸の外孫。その安倍首相が国民に態度で示しているスタンスが「相手の意見なんて聞くだけ無駄」。

(東洋経済12/28-1/4号「アジアで対立する3人の指導者の因縁」)

もし、国民に範を示すのは首相ではなく天皇の役割というのなら、昭和天皇(およびその後の今上天皇も)はA級戦犯(岸信介はA級戦犯被疑で逮捕・不起訴、公職追放)が合祀された1978年以降、一度も靖国神社を参拝していない。

心の豊かさ遅れる我が国の「コミュニティ」と「アソシエーション」

あけましておめでとうございます。思うところあってサイトタイトルを変えました。心酔するB'zの最愛のヴィデオ作品『Just Another Life』を拝借したタイトルは愛着強かったのですが、とうとう自分も後厄迎えますしね、というところで。

元日に相応しいエントリなんだろう、と考えながら(2013年締め括りのエントリが"ANKERモバイルバッテリ"のブログが言うことではないですが)あれこれ見ていたらWIREDに”「シベリアのイエス」の理想郷:ロシアの小さなカルト教団はぼくらに何を語りかけるのか”というエントリが。

ひとつには中産階級という極めて世俗主義的な階層がその後台頭してきたからです。中産階級は信仰をもちません。自分たちの生活が第一で、何に対しても不満をもちます。これは世界的な傾向ということができるでしょう

「生活」に対立させられるものが「宗教」なのか「倫理観」なのかはたまた「思想」なのか、言い方と概念は様々にあると思うけれど、いずれにせよ「生活が第一だと何に対しても不満を持つ」という一文にはっとしました。そして中産階級=世俗主義的=信仰を持たない、そしてその台頭。言うまでもなくこれらで思い起こすのは日本人なら誰しも「行動経済成長期の日本」だと思います。生活を第一(というと思い返すのはあの政党かも知れないけれど、そう考えるとあの政党名は本当に因果なものだ)にして、「一億総中流」(=総中産階級)を実現して、信仰を捨てた国。ただ、類まれなることに、一億総中流という「いっせーのーで」国全体が中産階級化できた結果、「食うに困らぬ」だけの「余裕」ある社会が、「礼儀正しい、マナー重視の市民社会」を実現した側面はあると思う。
ハイテクが進み、心の豊かさ遅れる我が国の
如何ともし難いところ
なんてどうでもいいかあ
いやいやよくないな ああよくない
(『Out Of Control』/B'z)

けれどもその一方で、そうした中産階級層がなくなりつつあるという傾向も、いま世界的には起こっています。高給取りになるか、低所得者層になるか、そうした二極化がどこでも起きている。ユニクロの柳井(正)社長の言う『年収1億か100万か』の世界です。国や会社はもはやあてにならない。そんななか、自分の収入が1億か100万かと言われればほとんどの人が、100万円になるかもしれないという恐れを抱きますよね

はっとしたのはこの先だ:

そうすると身近な人同士お互い助け合うところに行きつきます。そう思う感覚とヴィサリオンの世界は、あるいはどこかで通じ合っているのかもしれません

僕は「1億目指して競い合い啀み合う」というようなストーリーが頭に浮かんでいたのだが、「身近な人同士お互い助け合う」ほうが自然。ヴィサリオンは2,000人程度の共同生活体で、宗教の体裁を取っているけれど教義を広めていくという意思はないよう。ただ2,000人の閉じた社会(本文中では「非社会性」と呼んでいる)で言わば自給自足の生活をしている。

これを「アンチグローバル」の文脈で語るのは、自分たちの便利で豊かな生活が何に負っているかという「恩」を忘れた物言いなので慎まなければいけない(TPPの文脈でもそうだし、鎖国待望論みたいになってもいけない)が、「何に対しても不満を持つ」中産階級が何を目指すべきなのか、「そうは言っても食えなきゃしょうがないだろ」という強靭なロジックに対抗しうる弁を編み出せる契機がここにあるように思いました。それを「コミュニティ」でななく「アソシエーション」というのがただの呼び替え言葉遊びに終わる前に、しっかりした骨格を与える言葉が生まれないとと思います。

Surface Pro 2の使い心地 その4

仕事では二台持ちしてます。二台持ちする(できる?)最大の理由は「軽い」につきます。

会社からはノートPCが貸与されていますので、当然メインマシンは貸与PCになります。資料作成の素材などはそのPCに保存されていますから、そのPCじゃないと出来ない業務は多々あります。だからいくらBYODでSurface Pro 2があればメールはできるからと言っても、貸与PCを持たずに外出するというのはありえない選択肢です。

逆に貸与PCがあればすべてが(当たり前だけど)できる訳だからわざわざSurface持ち歩く必要ないんじゃ?という疑問が出てくるんですが、私も購入するまではそう思ってました。iPadが出て「ほしい!」と思った時も、最終的に踏みとどまったのは「平日5日は鞄の中に貸与PCが入ってるのに、iPad持ち歩くか?もし平日は持ち歩かないとしたら、持ち出すのは土日だけ。だけど土日のどちらかはロードバイク乗ってることが多い。実質一日・・・買う意味ある?」ということでした。なので、Surfaceを持ち歩くのは考えてもいなかったのですが…

やっぱり起動時間が早いというのは強烈な武器です。外出の多い日だと、駅とかちょっとした待合とかで10分程度の細切れ時間が結構溜まります。この10分をどう使うか。普通のノートPCで、起動してログオンしてHDD回って落ち着いて使えるのに3分からひどいと5分くらいかかって、そうするともう残り5分を切ります。そうなるとゆっくりメールも見れない、という感じなんですが、Surfaceはすぐ立ち上がるのですぐメールチェックできます。それ以外にも少しの調べものなんかにも迅速に着手できる。

おまけに軽い。だから一緒に入れておこう、となります。傍から見たら変な感じかもしれませんが、二台持ちする十分な理由があると思います。

グラジェネ嫌悪感

二十代の頃には「少しでも社会が良くなるように考えなくなることなんて考えられない」と思っていたけれど、四十を超えた今、ふとそういうことを思っている自分に気づいて驚く訳です。「もうたぶん、自分が生きているうちに、この社会が劇的によくなることなんて多分ないんだろうな」と。


心のないやさしさは
敗北に似てる
(『青春』/ザ・ハイロウズ)

八十歳まで生きられたとしてあと四十年、戦後六十八年経ってまだこの程度なのにあと四十年で素晴らしい社会に成長成熟してるなんてどう考えてもありえないと、冷静な頭ではとうにわかっていたはずだけれど、それでも少しでも良くなる方向に個々人が考えて行動しなければ何も変わらないと律儀に考えてニュースを見て考えたり選挙も真面目に投票したりしても、一票の格差裁判とか特定秘密保護法案とか政治献金とか見てるともう萎えるしかない訳です。これをまたチャラにするのに何十年かかってその頃はもうほんとに老い先見えてる頃だしな、とかリアルに時間間隔が見えてしまうので、前向きなエネルギーが萎んでいくのです。

じゃあ自分はどうするのか?かつて十代の頃の自分たちがそうだったように、冷めた醒めた目でシニカルにアイロニカルに世の中を見ながら過ごすのか?よりよい社会なんてことに興味持たずに、自分は自分の楽しみのために日々を暮していくのか?いや違う。今この現時点で二十代の若者たちの中には、よりよい社会、これから求められるよりよい社会像を追及して活動している人たちがいるだろう、年を取った者は、そういう未来のある若い世代を応援・支援するのが勤めじゃないか。古臭いご隠居像かもしれないけれど、やっぱり世代を繋ぐことに意味を見出す。

今の私はもちろんまだまだ現役なので、若い世代の応援なんて言っていられなくて、まだまだやらないといけないことがたくさんあります。でも悲しいかな少しずつ先が見え自分が何者か知り限界もわかりつつあるなかで、自分が直接何かをやるだけではなく、誰かの役に立つことも考えていかないといけないと思います。しかしながら現代の日本は、未来ではなく、現在のマジョリティである「団塊の世代」という老年世代に対するアクションばかり。そこがお金を持っていて、そこが大多数だからと、「グランド・ジェネレーション」とシニアを呼び換え、おだて上げ、盛んに消費を煽り立てている。それこそ隠居、という消極的で日陰を強いられるようなイメージを嫌った現代の老年世代に「グランド・ジェネレーション」は熱狂的に受け入れられているみたいだけど、本当にそれは年を取った人間がとるべき振る舞いなんだろうか?もちろん老年は一線を退いて質素に暮せとは思わないけれど、死ぬまで自分が主役という顔で生き続けるというのは違うと思ってしまうのだ。それは社会の未来=若者を食いつぶし、自分たちが生きている間は未来は全部自分たちのものにしているのと同じことだと思う。グランド・ジェネレーションには、消費以外にやるべきことが他にたくさんあるだろうと思う。グランド・ジェネレーションが消費するから、若者の仕事がたくさん生まれ経済が回るんだよと言われれば、その「経済主義」を乗り越える思想を生み出すのが高度経済成長の恩恵を受けるだけ受けて今だ恩を返せてはいないあなた方の仕事だろうと返してみる。何十万というお金を出して「ななつ星」で過疎の地を巡っている場合ではないでしょうと。


御上至上主義で特定秘密保護法案は葬れない

ここには重篤な「御上至上主義」「御上依存」が染みついていて、何かを動かす力はほとんど宿っていない。

"なんと愚かな人間を、政治家などという仕事に就かせ、それをわざわざ身銭を切って養う事の哀しさよ!

言うても仕方が無いことやけど言う。
こういう動きが、せめて半年前ぐらいから始まってたら……。
マスコミや著名人が、せめて半年ぐらい前から声を上げてたら……。"
(ふくしま集団疎開裁判の会)

政治家と自分たちが繋がっていることを棚に上げているし、声を上げるのは「マスコミ」や「著名人」という「お上」がやってくれるべきだ、という「他人任せ」根性が染みついている。特定秘密保護法にアラートを上げるのは、別に個人だってできたはずだ。たとえ、それが近場の数人にしか伝わらなかったとしても。どこかの優れた一握りおスーパーヒーローが「政治家」や「マスコミ」や「著名人」となって、我々庶民の暮らしを守ってくれる、そういう発想こそが独裁に繋がるのだ、独裁を招く特定秘密保護法の成立に加担する意思なのだ、ということに気づいていない。「お上はダメだから我々で」では遅いのだ。お上はお上で動かし、自分たちは自分たちで動く。相手がどれほど「上」に立つ相手であれ、そいつのせいにするのなら自分の自由と引き換えになることを忘れてはならない。オマエは何を成し遂げたんだ?といつも返す刀で聞かれているのが人生。

ただ、僕のこの考え方は、現代のマスコミの怠慢に繋がっていることも理解するようになった。マスコミは我々一般大衆の合わせ鏡であるだけではなく、体制側の拡声器でもあり、なおかつ一般大衆が努力するときには自分たちの役割をサボることもあるからだ。マスコミに対してどうやって継続的な牽制を続けるか?かつてTVがほぼマスコミだったころは、なんだかよくわからないけれど「世論」というものが大反対しているので法案を通すのを取りやめよう、みたいなことが実際に起きた。情報流通がこれほどまでに簡単になった現代のほうが、そういう一般大衆の「大きな力」をマスコミが反映しなくなってきていると思う。

ファーストフード店での品格

とあるマックでMサイズのホットコーヒーを頼んで仕事をしていると、それは起きた。

二十代と見える男性店員が、少し離れた席に座っていた五、六十歳の男性に話しかけた。話しかけるというよりは詰め寄った。

「お客様。お客様。お客様!」

机をコンコンとノックもするのだが反応がない。客の男性はイヤフォンをしていて何か聞いているようだが、あれだけ人が詰め寄ってきたら普通気づくと思うので、寝ているようだ。

とうとう店員がその男性客を揺すって気づかせた。

「お客様!これ、持ち込みですよね?持ち込みは困るんです!お済でしたらお帰り頂けますか!」

男性客のテーブルの上のトレーには、コンビニのサンドイッチと思しき包みの屑、バナナの皮、飲みさしのいろはす。Sサイズのコーヒーが申し訳のように隅に置かれていた。

どうもやり取りを聞いていると、男性客は以前から繰り返し持ち込み・長時間滞在をやっているらしい。それを不快に思っていた若い店員が、溜まりかねて爆発した、という感じだった。

男性客のほうは「チーフを出せ」とか「まだコーヒー飲んでるんやわ、他の人もたくさん居てるでしょう、コーヒー長い時間飲んでる人」とか「マックってこんな怖いとこやったけなあ」とか、のらりくらりと躱している。

僕は非常に複雑な気分になった。これは今はやりの「お客様は神様か?」文脈に通じることだと思った。

  • コーヒー一杯で長時間滞在することの是非
  • 持ち込みすることの是非
  • 長時間滞在の上、座席で眠ることの是非

「ちゃんと商品を買って入店していて、滞在時間に制限がないんだから、何しても構わない」というスタンスの「客」という存在が増えて半ば当たり前みたいになったのはいつからなんだろう?やりはしないけどもし僕があの男性客と同じことをしたとして、注意されたら恥ずかしくて退店する。それがまっとうな感覚というものだろう。園遊会で陛下に手紙を渡してはいけないなんて「いちいち書くことではない」という以上に、いちいち明文化しなくても分かってないといけないことだろう。「書いてないじゃないか」という言い草がいかに下劣な人間性なのかということを、僕たちは改めて世に浸透しなければいけないと思う。

正直に言って、あの店員は、もう少しうまい言い方は確かにあったと思う。人を、とりわけ客を思うように動かしたいのなら、言い方は非常に大事だと思う。しかしそれは、あくまで「結果」にフォーカスした行動方針だ。言い換えると、自分が手に入れたい「結果」のために、自分をある意味で「曲げている」ということもできる。自分の常識に照らしてあってはならないことをやっている相手に対して、今後の店の売上とか自分の雇用とかそういうのを算盤に入れた結果、「下手に出たほうがいい」という判断でやっていることだ。果たしてそれは褒められたことだろうか?ここで、「お客様は神様なのか?」という命題が登場する。僕は、客であればいかなるときでも丁重に扱われなければならないという常識はそろそろ終わりにしていいと思っている。第一、「お金を払っているから」という論法は、「じゃああなたよりもお金を払っている方をより優遇します」と言われたらぐうの音もでないロジック、のはずなのだ。

男性客も店員もどっちもどっちで片づけるのは簡単だけど、僕は、どんなときでも言葉遣いというのは最重要だという基準を当てはめたとしても、やはりこの件は男性客が間違っていると思う。こういう状況があった際、「あれはあの客が悪い」と誰もが思う状態がまっとうだと思う。