「中年も自転車にのって」の続き

先週、名古屋まで観に行って観てこなかった少女は自転車にのって』を観に京都シネマに行ってきました。今回は電車で。

「自転車は自由の象徴」と語ったというサウジアラビア初の女性映画監督ハイファ・アル=マンスールの言葉に観る気で頭がいっぱいになっていたので、それ以上詳しい情報もストーリーの詮索もしなかったのですが、純粋に観てよかったなと思った映画でした。映画というものをほとんど観ないので、単純なストーリーでも映像でも感激できるのですが、この映画はひとつはほとんど何も知らなかったサウジアラビアの習俗の一部を知れたこと、もう一つは主役のワジダ役の女の子がすごくかわいいこと、この二つがあるのでよく映画を観る映画好きの方でも楽しめると思います。「女性」映画監督というだけで話題になるくらい、この現代において男尊女卑を貫いているサウジアラビアで、その因習に抗う少女、だけではなくその母と友達のお話。国の体制に立ち向かう彼女彼らを観ると、日本社会で文句をつけていることが情けなくなりました。そして、監督が言ったようにまさに「自由の象徴」として自転車で駆け抜けるワジダの姿は、自分の自転車に対する想いを再確認させてくれました。最近、あれやこれやと本筋から外れたところに目が行ってしまってた気がしました、私が自転車に乗りたいのは独立独歩の自由を生み出せるから。もっと乗ろうと思います。

ネタばれしない範囲で面白かったところをいくつか:

  • 家庭内で普通にプレステでゲームしてたとこ。どころか、コーラン学習ゲームみたいのが売られてて、主人公がそれで勉強するところ。
  • とにかく何でもお金!「泣き止んだら5リヤル」にはびっくり。
  • ラスト近くで、ワジダのお母さんがワジダを連れて、病院で働く親戚のところに行ったシーンがよくわからなかった。

映画の公式サイトにはサウジアラビア基本情報が纏められているので、これを見てから鑑賞したらわかりやすい部分があると思います。京都シネマで2/7まで、シネリーブル梅田はとりあえず今週中は上映しているみたいです。


映画までの間、COCON烏丸界隈を散歩してたのですが、六角通・東洞院通はこんな風に歩道・自転車道・車道が線引きされてるんですけど、自転車乗る人間としてはこれでは正直迷惑な感じかもな、と感じました。この辺、やたらと路肩に駐車してるのもあって。いちおう、歩行者と運転者に「自転車というものも通るんだよ」ということをリマインドしてくれるという利点はあるのかなと。


で、ミディ・アプレミディという洋菓子屋さんに。目当てだけれども持ち帰りはないと思っていたフロールが持ち帰りできるようになっていて、代わりに買おうと思っていた缶入りサブレは要予約で買えなくて、おまけに1Fの店舗はこの日で最後の日(2/13から2Fで営業)と、相変わらず自分の「引き」の強さとギリギリ具合にちょっと苦笑。ただ思いがけず買って帰れたぐりおっとチェリーのフロールは、思いがけずしっかりとした生地にバターの風味が感じられる美味しいロールケーキでした。

久し振りにわずかの時間だけど京都に遊びに行って、ちょっと京都いいなあ最近、と、何がそう思わせたのか分からないけれどそう感じる気配みたいなのがあった。どうしても奈良にはないあの気配、何が奈良にはないのかと言われたら、やっぱりそれは「文化」なんだろうなあ。ちょっとしばらく京都に足を伸ばしてみようかなあ。

『ソハの地下水道』

僕の日常というのは、なんと腑抜けた日常なんだろう。
「命の大切さ」なんて軽々しく言っていい言葉ではない、そう思った。

第二次大戦中、ナチスドイツの占領下にあったポーランドが舞台。もともと多民族主義の伝統のあるポーランドは当時ヨーロッパでもユダヤ人が最も多く居住する国のひとつ。ホロコーストを恐れ下水道に逃げるユダヤ人が、その下水道で、下水修理を生業とするポーランド人のソハと鉢合わせする。通報を恐れるユダヤ人。しかし空き巣を副業としている俗物のソハは、通報しない代わりに金銭を要求する-。

まず「死」のあまりにありふれた光景に脳天がくらくらする。下水道に大勢のユダヤ人が逃げてきた後、現実的に匿い続け切れないと判断したソハは、「11人選べ」とユダヤ人達に言い放つ。ユダヤ人達はいったい誰を選ぶのがいいか言い合いになり、せめて12人と言い、そういううちに14人、15人となり、ソハは「ユダヤ人というヤツは命まで値切るのか」と怒鳴る。そうして、匿われる11人が決まり、移動を開始する。

え?え?残りの多数のユダヤ人は、地下水道で見殺しになるのか?-なるのだ。そして、当然のように餓死し、ソハは「遺体は隠さないといけない」といって、地下水道から出た川に遺体を投げ込む。なんの造作もないように。

ソハは全く善人じゃない。盗人だし、命と引き換えにユダヤ人から金を巻き上げる。しかし、その巻き上げた金で彼は食糧を買い、危険を冒し、地下水道を通りユダヤ人に食事を運んであげる。そういうソハの日々を観ながら、観ている僕の胸は常に不安が支配する。「ユダヤ人も、無尽蔵にお金がある訳ではないだろう」「この地下水道生活が、いったい何カ月持つというのだろう」。

事実、ユダヤ人のお金は尽きてしまう。ユダヤ人グループのリーダー各の老人がソハにそのことを打ち明けると、ソハは言う。「そのことは皆に言ったのか?」いや、と老人が首を振ると、ソハは自分のポケットから札を取り出し渡していう、「いいんだ。みんなの前でこれを渡せ。お金も貰わず支援するヤツだと思われたくない。」

簡単に人が死に、人が殺される状況のポーランドの中で、家族さえ巻き込んでまでユダヤ人を匿おうとする俗人の心の葛藤なんて、僕にはスカイツリーから飛び降りたって多分ちっとも理解することはできない。僕はあまり映画を観る生活を送ってないので、もしかしたら、この映画の描写に勝る映画もたくさんあるのかも知れない。でも僕にとってはこの映画は、今の僕の日常や、目に飛び込む日本国内の数多のニュースになる出来事や人びとの、ほとんどすべてを、特に自らが「大変なことです」とぬけぬけ言ってる出来事を「ばかばかしい」と思わせるに十分な衝撃力だった。この、ソハという「ただの人」が、実際に命を賭してやり切ったことはいったい何なのか。彼は決して善行を果たそうとして、自らの行いを善としてやり続けていたのではないと思う、そういう意識ではないと思う、でもだったらいったソハの行動はなんだったのか。もうどうしても僕はこのソハの心理の深層に迫りたい。映画が何かを言えるのだとしたら、僕はこの映画のようなことを言ってほしいと切に思う。

それにしても、日本ではテアトル梅田という比較的小規模な劇場で上映されるような作品に、こんな凄まじい映画が出てくるなんて、ほんとに率直に言って日本の映画というのは大半が暇つぶしみたいな、せせこましい、突き詰めてないうわっすべりなものなんだな、と思いました。

なら国際映画祭2012で『不完全な旅』観てきました

河瀬直美氏がエグゼクティブ・プロデューサーを務める「なら国際映画祭2012」に行ってきました。

なら国際映画祭は、河瀬直美氏がカンヌなど世界の映画祭に招待される中で、映画祭の意義を感じ、故郷奈良にその力をもたらそうとNPO法人を設立して2010年に第一回開催を実現した映画祭。河瀬氏はカンヌでグランプリ(『殯の森』)を受賞している奈良が誇る映画監督ですので、もちろん2010年の第一回も聞こえてはいたんですが、なんとなく、「”国際”って言ってもなあ。二回目あったら別やけど」と、正直そう思ってた訳です。而して第三回が今年開催され、これは凄いことだと素直に思いました。

僕が観た『不完全な旅』は、第一回映画祭で最高賞「ゴールデンSHIKA賞」を受賞した映画作家ペドロ•ゴンザレス•ルビオ氏が、その受賞と共に授与された2012年開催で上映する特別作品”NARAtive2012"の製作権で映画を撮影する、その製作過程を追ったメイキング作品。

ペドロ氏が撮影した作品『』を観ずにこの『不完全な旅』を観たのは、ひとつはこの上映には河瀬氏とペドロ氏、メイキングを撮った萩生田氏の鼎談があったからなんですが、『不完全な旅』は映画製作のプロセスをなんにも知らない私にとってもスリリングで面白かったです。「スリリング」というのは、ひとつは主人公もストーリーも何にもなしでいきなり十津川村神納川に来て二週間で映画を撮る、というそのライブ感のスリリング、もうひとつは、メキシコ人作家ペドロ氏のとてもナイーブで律儀で真摯で目に見えて判る”気ぃ遣い”なスタンスと、「100年後?とんでもない、20年、いや10年後にどんなけ家が残ってるか。ほとんどないんちゃいますか」と冷徹なリアリズムを持ちながらも表向きあの奈良特有の突き放したような言葉づかいの裏に潜む”気ぃ遣い”なスタンスの神納川に住まう人びとの、その魂のぶつかり合い。

率直な感想としては、『祈』を観る機会はもうないのかなあということ。それくらい、『不完全な旅』で興味を引かれるものでした。以下、箇条書き:

  • 鼎談でいちばん印象に残ってるのは、ペドロ氏の「日本人は「完全」であることを大事にするから」という言葉。『不完全な旅』というタイトルを聞いて、「自分に何か不完全なところがあったのだろうか?」と心配になったという話をしたときに言ってた。ペドロ氏には日本人はそう見えているというところから、世界から見て日本人がどう見えているかというのに、自分は意外と無自覚であると気付かされた。
  • ペドロ氏の繊細さはすごかった。外国人の繊細さに触れるにつけ、日本人としての繊細さを大切にしないとと思う。
  • なんとなく、奈良南部は(僕が生まれた)北部と気質が違うのかなと思ってたけど、この作品で観る限りよく似ていた。
  • ならまちセンターのスタッフは、奈良でこういう催しが行われたときに較べて非常によく準備されていた。接客に積極的でとても好感が持てました。
  • 対して、ホームページの情報・更新が少し不備が多いのが残念。この映画祭自体も今年が第二回なのか第三回なのかで若干揺らいでいるし、『不完全な旅』の画像もリンク落ちしたりしてる。
  • 司会の方が河瀬氏の肩書を噛み噛みだったのがちょっと。ページでは「理事長」と紹介されてるし、「理事長」で良かったと思う。

 

「答えを出す」道具と「答えが出る」道具-『鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言』

いちばん感動したのは、「差金」の話。

  • 差金(曲尺)はもちろん見たことあるし知ってるんだけど、あれだけで計算ができるとは知らなかった。長い尺と短い尺の目盛の刻みは、同じじゃなくて違うのだ。「物差し」と言えば当たり前のようにミリで刻まれてるもので、長い尺と短い尺がくっ付いているのは、直角を取るためとしか思ってなかったので、刻みが違うということに仰天した。短いほうは、円に当てるだけでその直径から円周がわかるように刻まれているらしい。それどころか、この差金だけで、 掛け算、割り算、二乗の開平、比例配分、三角法等々、いろいろな計算ができたらしい。映画では西岡氏が「電気そろばん」と言ってたと思う電卓など、不要なくらいほとんどの計算が、差金だけでできるらしい。
    道具とはこういうものだと思った。差金は、長尺と短尺に違う目盛が刻まれ、当て方で様々な計算ができる、「答えを出す」道具だ。使い方を覚えて初めて、いろんな答えを得ることができる。対して電卓は、「答えが出る」道具。使い方なんて覚えなくても、キーを叩くだけで答えが出る。この区別はよく覚えておく。
  • 西岡氏は言葉づかいが優しい。お弟子さんは「近寄りがたかった」と語ってたけど、単に言葉が荒いことだけが恐ろしいことではない。
  • 自分の自信のある意見はあらぶってもいい。逆に知らないこと、見ただけ聞いただけのことは、丁寧に話さないといけない。
  • 飛鳥・天平には先人の答えがない。その境遇を思い知れ。
  • 「薬師寺で死ね」
  • こういう映画こそ「助成」に相応しい。でも相応しい・相応しくないを、行政が判断するのは難しいしある種危険だし。
  •  法隆寺には鉄筋を入れられ、薬師寺にはコンクリートを使わされ。それへの反論の仕方も戦術があったと思うけれど、でもただ頑固になっているだけではなく、飲まざるを得ないところは飲んで前に進めている。
  • コンクリートの寿命は100年、それでも押し通したのは、コンクリートは年数が持つという意見に抗えないからだろう。
  • 「ほんまもんの仕事」。オレにとっての「ほんまもんの仕事」をやり遂げたい仕事は、なんだろう?
  • http://www.oninikike.com/

『100,000年後の安全』観てきました #10mannen_mita

福島第一原発問題で公開予定を半年近く繰り上げ緊急公開された、話題のドキュメンタリー『100,000年後の安全』観てきました。

 

奈良3仲間の木田さんに教えてもらって(木田さんのところでも6/25に上映予定)、気になっていたのでテアトル梅田での公開を待って観にいきました。

日本のドキュメンタリーのような、情報をぎゅうぎゅうに詰め込む形のつくりではなかったのがいちばん印象に残ってることかな。日本の作品というのは、なんであれ情報量が多いほうがおもしろいと「感じる」構造になってると思う。この流れを作ったのはト書きを多用に多用する士郎正宗だと(攻殻機動隊)どこかで聞いたような気がするんだけど、とにかく、直接目に耳に入るところから、入らないサイドストーリーとかバックストーリーとか、やたらめったらに情報を積み重ねるのが日本的だと思う。それに慣らされてるので、ずいぶんゆったりとしたつくりに感じるし、途中少し退屈な感じもするんだけど、本質というのはけして情報量ではないと再認識。いくら情報量を増やしても、徹底的に考え抜けない構造になっている思考様式と、あんなにシンプルなのに本質に辿り着く思考様式。

  • オンカロは「2100年に運用を停止。永久に封印される。」にいちばん驚いた。2100年以降の放射性廃棄物はどうするの?2100年までに原発は運用停止するということ?勉強不足。調べよう。
  • 「100,000年後の人類に、この場所が危険だと確実に伝えられる方法がない」という思考の到達に感銘。確かに同じ言葉を話している保証はないし、絵も今の僕らと同じように受け止めるかは分からない。そもそも、科学が進歩してるかどうかもわからない。それに、「ここは掘るな。危険。」と書いておいてその意味が通じたとしても、現代人が古代の墓を「祟りがあるぞ。掘るな。」と書かれていても掘り起こすように、100,000年後の人類は掘り起こすかも知れない。
  • それならいっそ、「忘れられた方がいい」という発想も出てくる。それは出てきても不思議ではないと思う。
  • ウランだっていつかはなくなる。再利用?それに対する考え方はあまりにもシンプルであまりにも的確だった。
  • 地中が安定している。
  • なぜ、法律が必要なのか?彼らはお決まりの議論をする?このあたりの理解がキー。