第3期いこま塾 第2回"“「あったらいいな」を形にする” 関西ワンディッシュエイド協会理事長 樽井雅美氏 に参加しました

詰まる所、「仕事をしている人は、市民活動などしなくてよい」ということか。

参加者6人でのワークショップの際、「樽井さんが自分と違うと思うところは何か」という問いに対して、「端的に主婦だということ。私は会社員でそれだけの時間がない」と言ったところ、「あなたぐらいの年齢の男性は仕事で脂がのっている時期だから、樽井さんと同じようなことはできないと思います。身近なところから始めればよいと思います」と、初老と見える女性が仰った。

その内容自体は全く私も同意見なんだけど、このやり取りに2つの違和感を持った。1つは、私の発言が、「何か大きなことを成し遂げたいと思っている」と前提されて受け取られていたこと、もう1つは、身近なことを何もしていないと前提されていたことだ。

私がこの「いこま塾」に参加しようと思った動機の中で最も大きいのは、「地域のことをほとんど知らない、地域活動に参加できていない」という反省。だいたいの中年サラリーマンは「地域のことをほとんど知らない、地域活動に参加できていない」という批判に当てはまると思う。確かに、仕事に24時間すべて注ぎ込むのは大変だけどやりやすいことだし、そのほうが仕事上の成果も上がるけれど、自分が住んでいる地域のことを何も知らない、地域に何も貢献できていないというのは生活者として不完全と確かに思うので、自治会やその行事や市のイベントにできるだけ参加するようにするようになった。この「いこま塾」への参加もそのひとつ。

今日の内容は全国的にも注目されている活動の主催者の方の話だったけれど、内容はともかく、私のような中年サラリーマンがこういったイベントに参加するだけでもかなり珍しいことだと思う。私はその「中年サラリーマンがこういったイベントに参加することが珍しい」という状況そのものを改善していかないと、市民の成熟というものはないと考えていた。

ところが、このイベントに参加している人の意識も大半は、「中年男性サラリーマンは、身近なことですら、地域活動には参加していなものだ」という前提を持っているという印象を受けた。仕事を持っている人は、仕事をしていればいいというのが大半の意識なのだ。

私はここで大きく落胆したが、更に一歩進めて樽井さんの言葉を思い返した。「育児のストレスが重なって、自分が社会と繋がっていないような感覚になって、何か少しでも社会と接したい一心で」。市民活動というのは、こういうことなのかも知れない。行政では不足する仕組みやサービスの遂行とか、いろいろなメリットは言われるものの、最大のメリットは社会との接続を生み出すということなのかも知れない。そう考えると、主婦や退職世代が市民活動の中心というのは改めて自然だと思える。そして、仕事をしている人間は、仕事によって社会と接続できているので、改めて市民活動で社会と接続しなくてもよいと言われているように思える。

そう言えば最近、会社で子持ちの男性3人が続けさまに「自分は仕事でおむつ代を稼がないと」「自分の稼ぎがなければ子どもを食べさせていけないのだから」と、仕事に没頭することを肯定するための「常套句」を言うのを聞き、なんと旧態依然としているのだろうと驚いたことを思い出す。最初に書いた通り、24時間フルに仕事に注ぎ込むのがいちばん容易いこと、けれど現代の我々は、そうではないやり方の実践を求められている。ルールがないからといって遮二無二時間を仕事に費やすことを当然視できない環境にいるのだ。もうひとつ、新聞の夫婦お互いに対する不満、といった特集で、「喧嘩の最後には「誰のおかげで食べていけるんだ」と言われる」という20代女性の声があって驚いた。その言葉は今や言ってはいけないものとして同意がとられている言葉と思っていたから。世代を超えてまだ使われているとしたら、国民性というのはそうそう変わらないということなんだろうか。

いろいろ考えたけれども、やはり地域活動に参加する市民は、老若男女まんべんなく参加している状態が自然であり理想だという考えは変わらない。だから、中年サラリーマンが地域社会に参画できるようなスケジュールや取組を真剣に考えないと、地域が歪になる時代がすぐそこまで来ていると思う。市民活動が助成金で育てられるとしたら、その助成金は誰が支払っているのか。市ではなくて、市民なのだ。税金なのだ。

すべての仕事は(遅かれ早かれ)さよなら

タイトルはもちろん、言うまでもなく、フリッパーズの名曲『すべての言葉はさよなら』から。

京都駅で少し昔のことを思い出していた。その少し昔、東京出張から帰る新幹線の京都着時間が55分か10分か25分か40分かそこらだったら(つまり0分か15分か30分か45分の5分前そこらだったら)、もうすぐ京都ですのアナウンスが流れたら5号車付近まで行って階段を駆け下りて改札を駆け抜けて、近鉄の特急券売り場に猛ダッシュしたものだった。0分・15分・30分・45分に特急が出るのだ。京都駅の特急券売り場の係員の端末捌きはそれはそれは見事なものだった。新幹線を降りてくる客が、それだけ急いで掛け乗ろうとすることを熟知していた。「特急券西大寺まで禁煙、乗車券は生駒まで」と言い終わるくらいにはすでに特急券と切符が打ち出されていた。

写真のようにまだ特急券売り場はあるものの、僕が特急券売り場に駆け込むことはもうない。そういう局面がしばしばある近鉄沿線のビジネスマンは皆インターネット特急券のユーザになっていると思う。本当に隔世の感がある。僕が大阪に出てきて働き始めた頃、大阪駅はまだ自動改札じゃなかった。鶴橋の近鉄とJRの乗換口さえ、自動改札じゃなかった。あの流量を、人の目が見ていたのだ。それが今では特急の車内検札すら一席一席しなくてよくなっている。乗務員のハンドヘルドに、特急券が購入されている席が表示されるからだ。売れてないはずの席に座っている乗客にだけ、「特急券拝見します」と乗務員は声を掛ける。

どんなに優れた技能であっても、どんなに見事な職人芸であっても、時代が移り変わるとともにその仕事は姿を消す。自分が生きているうちは目の前から消えてほしくない所作は数あれど、そう言いながら実は黙殺してしまっている所作がどこかに必ずあるのだということを胸に刻んで過ごさないといけない。その不作為から僕たちは自由になることはできない。

すべての仕事は(遅かれ早かれ)さよなら。

やっぱりアメリカ人は仕事ができる

もちろん「アメリカ人」とか「日本人」とかで一括りにするのはあまり良い発想法ではないけれど、最近、この先の働き方に思いを巡らせていて、最終的に「やっぱりアメリカ人は仕事ができるんだなあ」と唸ってしまったことがあった。それはこういう顛末。

WIRED』の「オープン・ガヴァメント」を読んだり、直近の市報の特集が「ソーシャルビジネスという解決策」を読んだりして、前々から思ってることだけど、「自分が地域社会に役立てるとしたらそれは何だろう?」と改めて考えてみると、それはやっぱりIT分野しかないなあと。IT分野の中でも、比較的新しい領域というか、もちろん、今で言うとウェアラブルとか、そういう本当にとんがった部分とかコード書くとかはできないけれど、もう少し実際的に、こういう業務処理であればこういうITを駆使することで効率化が図れるはずですよ、とか、そういう部分はできると思う。

けれど、それが有用なのは先端の領域だからであって、なぜ先端の領域の知識を幾許かでも持っていられるかと言えば、そういう企業に勤めているから。そこで見聞きした最新のITの知見は、地域社会にあっては有用だと思うし活かせるはず。だけど、例えば地域社会の行政や地域活動をITで支援するという目的のNPOを設立し、それを本業としたら、それは数年でたちまち行き詰るように思える。なぜなら、「最新のITの知見」の仕入れ先である勤務先から退職しているから。

この悪循環に陥らないやり方というのは、「人脈」を売りにすること。「現場の知見」を追いかけ続けるのは限界がある。だからプレイフィールドを変えて、「私に声をかけてもらえればええ人紹介しまっせ」的な活動に切り替える。自分は集客塔で、実務は他人。これは何もNPOなどに限らず、日本の企業の中では至って普通のことに思える。転職するにしても、その人がどれくらいのカスタマーセットを持っているか、というのが、40歳を過ぎた人間にとって重要になってくる。

と、ここまで考えて、でも自分が仕事上で知っているアメリカ人は、確かに人脈を重要視しているし、ネットワークの力も利用していはいるけれど、それなりのポジションにいてもびっくりするくらい細部の知識をキャッチアップしているなと思い至ったのだ。彼らは、どれだけロールがプロモーションしようとも、詳細な知見も必ずキャッチアップしている。日本のように、「私は部長ができます」みたいなことにはならない。日本は、管理職になると、現場の細かいことはどうでもいいみたいな雰囲気になっているところが少なからずあると思う。それを人脈というある種の「権力」で補う構造になっている。それに引き替え、アメリカ人は確かに実務が出来る。出来なければいけないと認識しているところがある。ここに思いが至って、「ああ、社会貢献できる人間になるためにはあまりにもスキルセットが少ない」と痛感したのでした。

B00EI7KTN4 WIRED VOL.9 (GQ JAPAN.2013年10月号増刊)
コンデナスト・ジャパン 2013-09-10

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奈良先端科学技術大学院大学公開講座2013 「ビッグデータが世界を変える あなたに迫る超大規模データ」 10/05

1コマ105分 x2コマの講義受講は約20年ぶりでちょっと辛かったですが、正に仕事で関わっている分野について、研究者の方の解説に触れられる貴重な機会です。これが無償なんだから行かない道理はないでしょう!

奈良先端科学技術大学院大学(以下NAIST)はウチから車で20分くらいのところなんですが、毎年秋に公開講座をやっていたと今年初めて知りました。今年、公開講座の存在が私のアンテナに引っかかってくれたのはもちろん講座のテーマが「ビッグデータ」だったからですが、ビッグデータは業界のみならず、広く世間の関心を呼んでいるテーマらしく、今年の公開講座は講座始まって以来最大の300名の申し込みがあったとのことでした。

しかし残念だったのは、その300名のほとんど、9割くらいと言って言い過ぎじゃないと思う、ほとんどが定年退職後と思しき老年男性だったこと。世間のこういう教養講座的なものを覗いてみると、特に奈良ではたいていお年を召した方々。選挙のときと同じ雰囲気。確かにあの世代の方々は知的好奇心が旺盛というか、テレビや新聞を賑わす世間の出来事を、「自分の世界」と同じレイヤで見聞きし語る姿勢で生きてきているので、門外漢かどうかお構いなしに興味のあることには貪欲と判ってはいますが、それにつけても中年以下のいないこといないこと。結局、日常生活や仕事で忙しいからこういう時間が取れないとなると、いつまで立っても教養も連携も身につかず、政治に参加する動機もなく、世の中何にも変わりません、を補強していくだけのような気がします。

講義そのものは、言語処理系の話とデータマイニングの話で、どちらも一般知識としては知っていましたが、誰かに語って説明してもらったのは初めてなので、語る言葉が増えてとても有益でした。一方で、各講義の後で質疑の時間があったのですが、そこはやはり一般人の方が来られているので、質問の内容もどうしても講義の内容にマッチした質問ではなく、漠然とした「ビッグデータ」に対する質問になってしまう場面もあったのですが、それに対して、きちんと一般的な切り口で答えを返されていたところがさすがだと思いました。

今月は毎週土曜は学生です。この後の講義も興味深いものばかりで楽しみにしています。

誰かが追いかける背中になること

この業界、あまり詳しくは書けないけれど、会社を辞める人が立て続く時期というのがある。今、まさに立て続いているんだけど、その中に、私とほぼ同じ頃に入社して、3,4年同じチームで仕事をしていた、とても仕事の出来る5歳ほど年下の男性がいた。先週一杯で退職で、辞めることを知ったのは先週の火曜日、それも人づてだった。

彼と同じチームで仕事をしていたときは本当に飛ぶ鳥を落とす勢いというか、物凄くうまく行っていたチームだった。私は転職して1,2年の頃で、まだもう一つ社内組織も事情もワークフローもそれどころか製品さえ万全に把握できておらず、そんなところを一から十まで細かく丁寧にフォローしてくれたのが彼だった。何かにつけ細部まで完璧で、私はお客様のところで案件をどういう方向で進めれば満足して頂けるか、大枠の方向性を間違えないようにすることに集中すればよかった。とても信頼できるチームメイトだった。

それで、「辞めるって聞きましたよ」とメールしたら、彼から丁寧な返信がもらえた。だいたい、そういうときのメールに書かれる内容というのはマイナスなことはないものだけれど、彼がそのメールに、私の仕事ぶりに影響され、同じ職種を目指してみたいと思っていました、と綴られていて、話半分でも非常に嬉しかった。自分の仕事ぶりが、誰かの励みになれたのなら、それによってチームメイトとしてのその人を失うことになるとしても、自分のやっていることは間違っていないと自信を持てるありがたいことだ。

自分の背中が、誰かにとって追いかける目標になれていた自分は、少し誇りにしてもいいんじゃないかと思った。これは自分にとってとても励みになる。サラリーマンとしてこの年になって、こういった励みはなかなか巡り合えるものではない。だからこそ、胸に大事に灯しながら明日からも努力しようと思う。

作文

「決まったことを、決まったとおり、キチンとやる」だけで生産性は3倍になるという。13分冊、計1994ページの店舗マニュアル(MUJIGRAM(ムジグラム))の秘密を公開した。

「ホウレンソウ」は、人の成長の芽を摘む
松井忠三・良品計画会長に聞く

「ホウ・レン・ソウ」というのは基本的にはピラミッド型組織のより上の階層が、より下層での活動の状況を逐一把握したいという「欲求」から来るもので、「ホウ・レン・ソウ」はビジネス上当然のことと下層の立場が思ってしまう背景は、不都合な事実はできれば隠しておきたいという「欲求」と、本来それは説明できなければいけないことだという「倫理観」と、上の立場からの監督がなければ怠けてしまうということを認めているところから来るのだと思う。だから、「ホウレンソウは人の成長の芽を摘む」というのは正しい指摘だと思う。「ホウレンソウ」と監督のセットでなければ怠けてしまうというのは自律性がないということで、そこには成長はない。成長のない社員の組織に成長はない。その仕組みを、下層の状況を逐一把握したいという上層部の「欲求」が助長してしまう。ホウレンソウによって下層の状況を逐一把握したいという「欲求」に負けてしまうのも、上層部の「怠惰」と言っていいような気もする。

最近、その「ホウレンソウ」にしても、これはまるで「作文」だな、という報告書がたくさんある。ビジネス上のレポートとは思えないような言葉づかいと感情丸出しの長文の羅列。まだできてもいないのに「素晴らしい経過で順調です」という自画自賛。とてつもないことをやっているという印象付け。本来、日報や週報や月報の類は、作文ではないと思う。あまりに内容のない2,3行の報告もどうかと思っては来たけど、無駄な作文もどうかと思う。

評価基準

新・ルソンの壺、人を育て 技を伝える~中小企業の生き残り戦略~を観て、評価基準について考えた。山岡製作所では「スーパー職人」という一種の認定制度があり、かつ、弟子の成長度合が師匠の評価に反映される仕組が構築されている。これと、部下のノルマ達成率の総計が上司の評価である仕組とは、似ているようで確かに何かが違う。もう一つ、等級が決まっていても、その等級が「取引」に利用されることが常態化すると、職場のモラールを崩壊させる。達成率が唯一のメトリックとなっているような企業で、それ以外の要因で給与が上昇するようなことがあると不公平感以上の悪影響が広がる。

 『新・ルソンの壺』を観てそこまで考えたのは、先週に米マイクロソフトのバルマーCEO、1年以内に退任というニュースがあったことが若干影響していると思う。バルマーCEOの退任は、マイクロソフト社内における従来型のWindowsビジネスの地位低下を明確に表していると思う。これは、PC・スマホ・タブレットにおけるマイクロソフトのOSシェアが22%に過ぎないという事実を受け止めている。これは、現在の足を引っ張る過去の功績と決別するという必要であり大切な決断だ。将来の主要事業ではないことがはっきりしている事業の現在の業績が前年度比や前四半期比で華々しかったからと言ってそれが高く評価されると、企業内での士気は下がる。有体に言うと「白ける」。過去の功績を振り回す事業部の存在や、「そうは言え、現在の収益の過半がこの事業から生み出されている」という強弁。これらを意図的に継続的に抑制するのは容易いことではないということだろう。

お客様を持つということ

 今の会社に転職して1,2年経った頃、昔勤めていた会社と仕事をすることがあり、その担当者の方が先輩で、一頻り転職の経緯などを話した後、その先輩が「これからはどこかのお客さんと強い関係を築いてやっていくことになるんやろねえ」ということを仰った。そのときは、その言葉の意味を、よく判ったつもりでいたのだけど、今、ふと思い出した。

 お客様を担当するというのは、そのお客様に自社との取引をする気持ちになって頂けるのが大前提だから、お客様に信頼してもらえなくてはならない。一方、自分の会社が存続するためには、存続している間は継続的に売上がなければならない。つまり、長期に渡って自社を信用してくれるお客様を持つか、自社と取引してくれる会社を次々と見つけていくか、ということに大雑把に分けられる。

 信用してもらうためには、一定の時間がかかる。一時期だけなら信用してもらうのは容易い。続けられそうもない許容量オーバーなサービスと努力を集中すればいい。そうすれば、とっかかりの信用は得られる。でもそれは、会社として継続可能なものではない。なぜなら「個人営業」だから。
 こういった許容量オーバーなサービスを欲する会社というのは、成長企業であることが多いから、金払いもよいことが多い。成長途上ということは会社としてもまだ小規模で小回りが利く。しかし、成長企業の金回りの良さというのは、それらの企業群のうちの多くが消えてなくなる。つまり、信用してもらうための努力を続けても無駄になる可能性が高い。それを承知で、多数の会社を相手に取引相手を次々と見つけていくやり方になる。この戦法は、続かない。なぜなら、もともと許容量オーバーなサービスと努力を集中しているから。それは、会社として提供できるサービスではないからだ。

 目下、スタートアップとかベンチャーとか企業とか、新興企業が持てはやされて久しいけれど、それらの企業は多くが消えてなくなるというリスクを、取引相手として見たときに忘れてしまっている会社は結構多いと思う。長く続いている業種業界は、長く続いているだけの理由がある。そういった会社と取引をするためのスタンスというのは、いかに信用してもらい、それが長期的に継続できるものかという、非常に高度なものになる。それこそが「お客様を持つということ」だと思う。

社内尊敬

会社には、どうしても尊敬されない、というタイプの人が必ずいる。あれはなんなんだろう?と思って少し考えてみた。

どうしても尊敬されない、ということが問題になるのは、人事上、管理職に就いている人たちだ。なぜかと言うと、我々一般平社員は、自分の仕事をしていればいいからで、尊敬される・されないはあまり関係がない、というか「尊敬される」とプラスになるけれど、されてないからといってマイナスではない。それが「ゼロ」の状態。
しかし、人事上の管理職についている人はそうではない。誰だって、尊敬できない人物に管理されたくはない。だから、「尊敬される」がゼロで、「尊敬されない」とマイナスだ。なのに、「尊敬できない」状態のままで、それを別に改善しようとも思わないタイプの人が、結構いるということだ

我々一般平社員も、自分がやりやすい環境をどうしても好む傾向にあるので、「甘い」環境を作る管理職を好みがちで、それを「尊敬」と取り違えては困る。まあそういうバカな過ちは流石に犯さない、という前提で、どういうタイプが「尊敬されない」のかな、と考えてみると、とどのつまり、会社の中での役割とか関係なく、一般社会の人間としての「人格」の出来・不出来で、尊敬できる・できないってやっぱり決まっちゃうんだな、という結論に至る。言葉づかいが粗野な人は人気は出ても尊敬はされないし、威張る人は畏怖はされても尊敬はされないし、嵩に掛かる人も諂われたとしても尊敬はされない。それらはすべて、企業というところの論理だ、ということは重々承知しているし、そういう「尊敬されない」人たちは、ひとたび状況が逆転して自分のポジションがダメになったらそれまでだという腹を括って仕事をされているのでそれはそれで大したものだなあと感心する。

けれど、自分はやはり人間的な成長を伴いたいので、それを範とすることはできない。社内での尊敬を集めたいなんて烏滸がましいことは思わないけれど、一般社会でも通じる人格を、年齢に相応しい人格を磨く努力は続けたいと思う。それにはやはり、それに相応しい言葉を語れることだと思う。