「自分なり」の3/11

3/11が来てニュースにたくさん触れる。たくさん触れる中で頭の中にかすかに違和感を残したのは「自分なりに」という言葉だった。被災地を訪問した学生、被災者によるイベントへの参加者、ボランティア参加者、いろんな人がインタビューに答えて「自分なりに」という言葉を使っていた。「自分なりに被災者の方の気持ちを受け止められたと思うので」「自分なりに震災の甚大さを理解できたと思うので」等々。

思うことというのは本来どれも「自分なり」だと思う。自分なりの考えでないものは、誰かの考えに他ならない。何かを見聞きして感じ思うことは必ずすべて「自分なり」のはずだ。だからいちいち「自分なり」と断る必要はないはずだ。なのになぜこうも誰もが判で押したように「自分なり」と言うんだろう?言ってしまわなければならないのだろう?

日本語は、「こう思わなければならない」という規範の塊でできているからではないか。そして、「あなたのやっていること考えていることは、全く不十分なものなのだ」と常に誰かから言われるような環境にある言語なのだ。どこかに到達すべき頂点があって、常にそこを目指すことを強いられる言語。それが日本語。だから、何をどう感じるかは個々人でそれぞれなんだという「自由」がいつまで経っても受け入れられない。だから、震災の記憶に触れて、被災者の方がどういう思いでいるのかに思いを巡らせてみて感じたことも、わざわざ「自分なりに」と断っておずおずと差し出さないといけない。そんなこと「自分なり」に決っているというのに。

わざわざ「自分なりに」と前置きをさせる言語というのは、自立を妨げる言語であるような気がする。知らない間に日本語の巧妙な業に操られて、誰かの自由な思いを妨げるような発想をしていないか、3/11に改めて自省しようと思う。