山越え

 僕は長い間、今晩が山という言葉を間違えていた。今晩が山というのは、今晩が助かるかどうかの正念場、今晩を乗り越えれば助かる、という意味ではなくて、今晩、ほとんど間違いなく終わってしまうということを、万に一つの可能性は可能性として残っているからそれで厳密に「山」だということで表現を和らげているのであって、今晩が峠という言葉とは、うっかり同じ意味だと捉えてしまうが、峻別するべきだったのだ。峠は、越えることができる。山と言ってしまったとき、それは越えようがないものなのだ。
 祖母を亡くした小学生の時、僕は「山」も「峠」も感じることができなかった。病室に到着したときには、祖母はもうこの世の人ではなかった。学校で給食を食べていた僕と妹は父が迎えに来て、母は先に車を飛ばしていたのだが、僕ら兄妹を連れて病室に入った父に「間にあわへんかってん」と涙を堪えて伝えた場面で、病室の記憶が終わっている。

 朝の通勤ラッシュの地下鉄のロングシートに、お爺さんが座っていた。結構乗り降りの激しい駅に到着して扉が開いてから、お爺さんは腰を上げた。そのお爺さんの前でつり革に捉まっていた僕は、お爺さんが鞄を整え始めていたので、次の駅で降りるんだなと察しはついていた。だから早めに身を開いて降り易くしたのに、お爺さんは電車が止まって扉が開いてから下車の動作に入った。他にも降りる人はたくさんいて、お爺さんが下りる道筋はできそうだったけど、それも乗り込んでくる人で早々に埋められてしまいそうだった。お爺さんはバランスを取って両足で踏ん張ってがっしと立ち上がると、まだ開いていた下車道を確かな足取りで進んでいこうとした。

 あのお爺さんは、今、山を登っている。それが毎朝のことなのか、その日の朝だけのことだったのかは、判らない。そうして、それを一瞬じれったく見てしまった僕も、確かに山を登っていたのだった。