BROTHER 生きていくだけだよ

オレにはこんな親友がいるんだという幸せを少し忘れかけていたことを、そっと詫びながら飲んだ4時間。

大学時代からのツレであるタニガワが、義理の弟さんの結婚式で来阪するというので、久し振りに会うかということに。タニガワは上本町に宿泊、俺はその後仕事で梅田に出なければいけないということで、16時に谷九で待ち合わせ、二人の都合の合間を取って天満橋界隈に。

メシにはちょっと早いと言って、適当に歩き回ってたら行き当った労働センターの1Fの喫茶店でコーヒーを飲みながら、タニガワの仕事の近況を聞く。その中で、「”キャリア”イコール”スキル”か?」という話と、「住宅ローンを終えてリタイアするという人生設計」という話に及び、「なぜ働くのか」ではなく、「働いて何になるのか」という問いに思いを巡らせる。

二軒目は、寒くなったしおでんがいいかなと見繕ってたんだけど、「1年以上、串カツが食いたいと言い続けている」というタニガワのために、ケータイで近辺の串カツ屋を探し、1軒目は休み、2軒目は予約で一杯で、3軒目に巡り合えた「萬時」へ。

話の内容はここではどうでもいい。おまかせストップコースで旨い串カツがやってくる小気味よいテンポが、折角やのに2時間くらいしか飲めへんねんなあ、しかもオレは仕事やから満足に飲めへんしなあ、という思いを強くする。タニガワと大阪で会うというのも珍しいし、休日出勤で夜から梅田に行くというのも非日常だし、その不思議な感覚が、余計に、まだ飲んでるというのに早々に名残惜しくさせる。

もう付き合い始めて20年以上が経っていて、大阪と名古屋に離れていてそれぞれの生活もあって、忙しい忙しいといってなかなか会うこともままならんけれど、そんなこと言ってるうちに、大袈裟じゃなくてほんとにすぐに死んでしまう、そんなことを見送りの谷町筋線で大声で話した。だから、会えるならその機会に会っておかないといけない。また今度と言ってるうちに、ほんとに死んでしまうぞ。そんなことを臆面もなく言えるヤツがいる幸せというのを、オレはもっと感謝しないといけないとしみじみ思いながら、夜勤に向かった。

どこかであいつがベソかいて
どこかでおまえがブッ倒れて
どこかでボクがヤケになってる
味方がいないと叫んでいる
みんな生まれも育ちも違ってるし
ベッタリくっつくのは好きじゃない
いざという時手をさしのべられるかどうかなんだ
だからなんとかここまでやってこれたんだ
You know what I mean

走れなきゃ 歩けばいいんだよ
道は違っても  ひとりきりじゃないんだ

悪口

 私と同じ部署の人間が、共同で業務する別の部署の人間を批難する、という”事件”があった。それも、ある一人を批難しておきながら、そのある一人に対しては、別の人間の非難を話す、という念の入った二枚舌を使って。

 酒席での話で済ましていいことではあるけれど、その"批難"ぶりは猛烈だったらしく、無視できるレベルではなかったという。従来、あまり素行の良くない人物でもあり、酒の席でとは言えその言動は幼稚で恥ずべきものであることは言うまでもないが、より問題なのは、そういう人間の言動を真に受ける管理者群にある。

 この手の人間は、二枚舌を使うこともあり、取り入りはうまいし、自分の給料を確保するためにありとあらゆる手を尽くす。その節操のなさを、戒めることのできない職場の規律というのは、当然のことながらモラールの低下に繋がる。

 とまあ、そんな難しいことを考えなくても、なんであれ人の悪口を言う人間を、信用する人間なんて信用ならない。

お客様を持つということ

 今の会社に転職して1,2年経った頃、昔勤めていた会社と仕事をすることがあり、その担当者の方が先輩で、一頻り転職の経緯などを話した後、その先輩が「これからはどこかのお客さんと強い関係を築いてやっていくことになるんやろねえ」ということを仰った。そのときは、その言葉の意味を、よく判ったつもりでいたのだけど、今、ふと思い出した。

 お客様を担当するというのは、そのお客様に自社との取引をする気持ちになって頂けるのが大前提だから、お客様に信頼してもらえなくてはならない。一方、自分の会社が存続するためには、存続している間は継続的に売上がなければならない。つまり、長期に渡って自社を信用してくれるお客様を持つか、自社と取引してくれる会社を次々と見つけていくか、ということに大雑把に分けられる。

 信用してもらうためには、一定の時間がかかる。一時期だけなら信用してもらうのは容易い。続けられそうもない許容量オーバーなサービスと努力を集中すればいい。そうすれば、とっかかりの信用は得られる。でもそれは、会社として継続可能なものではない。なぜなら「個人営業」だから。
 こういった許容量オーバーなサービスを欲する会社というのは、成長企業であることが多いから、金払いもよいことが多い。成長途上ということは会社としてもまだ小規模で小回りが利く。しかし、成長企業の金回りの良さというのは、それらの企業群のうちの多くが消えてなくなる。つまり、信用してもらうための努力を続けても無駄になる可能性が高い。それを承知で、多数の会社を相手に取引相手を次々と見つけていくやり方になる。この戦法は、続かない。なぜなら、もともと許容量オーバーなサービスと努力を集中しているから。それは、会社として提供できるサービスではないからだ。

 目下、スタートアップとかベンチャーとか企業とか、新興企業が持てはやされて久しいけれど、それらの企業は多くが消えてなくなるというリスクを、取引相手として見たときに忘れてしまっている会社は結構多いと思う。長く続いている業種業界は、長く続いているだけの理由がある。そういった会社と取引をするためのスタンスというのは、いかに信用してもらい、それが長期的に継続できるものかという、非常に高度なものになる。それこそが「お客様を持つということ」だと思う。

社内尊敬

会社には、どうしても尊敬されない、というタイプの人が必ずいる。あれはなんなんだろう?と思って少し考えてみた。

どうしても尊敬されない、ということが問題になるのは、人事上、管理職に就いている人たちだ。なぜかと言うと、我々一般平社員は、自分の仕事をしていればいいからで、尊敬される・されないはあまり関係がない、というか「尊敬される」とプラスになるけれど、されてないからといってマイナスではない。それが「ゼロ」の状態。
しかし、人事上の管理職についている人はそうではない。誰だって、尊敬できない人物に管理されたくはない。だから、「尊敬される」がゼロで、「尊敬されない」とマイナスだ。なのに、「尊敬できない」状態のままで、それを別に改善しようとも思わないタイプの人が、結構いるということだ

我々一般平社員も、自分がやりやすい環境をどうしても好む傾向にあるので、「甘い」環境を作る管理職を好みがちで、それを「尊敬」と取り違えては困る。まあそういうバカな過ちは流石に犯さない、という前提で、どういうタイプが「尊敬されない」のかな、と考えてみると、とどのつまり、会社の中での役割とか関係なく、一般社会の人間としての「人格」の出来・不出来で、尊敬できる・できないってやっぱり決まっちゃうんだな、という結論に至る。言葉づかいが粗野な人は人気は出ても尊敬はされないし、威張る人は畏怖はされても尊敬はされないし、嵩に掛かる人も諂われたとしても尊敬はされない。それらはすべて、企業というところの論理だ、ということは重々承知しているし、そういう「尊敬されない」人たちは、ひとたび状況が逆転して自分のポジションがダメになったらそれまでだという腹を括って仕事をされているのでそれはそれで大したものだなあと感心する。

けれど、自分はやはり人間的な成長を伴いたいので、それを範とすることはできない。社内での尊敬を集めたいなんて烏滸がましいことは思わないけれど、一般社会でも通じる人格を、年齢に相応しい人格を磨く努力は続けたいと思う。それにはやはり、それに相応しい言葉を語れることだと思う。 

ロングスパン-長い目

アメリカ大統領選を見るたび、いつも、「アメリカは物事を短期的にしか見ない、日本は何事も長期的視野に立って考える」っていうの、嘘だろうと思う。

僕は外資系に勤めているので、世間が「外資系は短期的なモノの見方をする」と見ているのが判っているし、自分もそう思うところはあるけれど、アメリカは何と言ってもその国の根本のところである大統領は、4年に1度選挙かつ三選禁止。だから、アメリカは国の方向性をいったん選んだら、とにかく4年はそれでやり続ける。そして、腐敗を避けるため、三選は禁止している。それに引き替え、日本は、気に入らなかったらすぐにも辞めさせるし、気に入らないと言ってすぐに辞める人も出てくる。こんなんで、日本は長期的視野に立つ国民性なんて、恥ずかしくて絶対に言えない。

長い目かどうかは、絶対的な日数年数ではなくて、それぞれの物事に対して適正な期間というのがあって、それに対しての相対的な評価のはず。日本の「長期的視野」というのは、往々にして、やっていることが成功するアテもないけどそのアテを真剣に考えるのも面倒だから、単に時間稼いでるだけじゃない?ということが多いんじゃないか。要は、「いつ見切るか?」という判断がない。あたかも何事も永遠に続くと思ってるかのように。

でも、そうじゃない。国のトップは8年以上続くと硬直するし、知事が何回でも再選できるなんて、腐敗に対する自衛意識が低い国ということだと思う。「問題だと思うなら、選挙人がその候補者を当選させないはず」なんて言うのはほとんど詭弁だと思う。そんなこと言いだしたら、ほとんどの法律が要らなくなる。どんな犯罪にだって、犯す側にも応分のリスクがあるのだから。その一方、ビジネスマンは年単位ではなく一刻も早く成果を出すことを要求される。これもまた、時計の針が違うことを意味している。

「なぜ?」の嵐

ジェルタブの正しい使い方はこちら 

日本のTVCMは、ロジカルであるよりもイメージ重視、という印象は誰にでもあると思います。僕もそう思ってますし、外国のTVCMと違って、そのイメージ重視な作りの中に、独自の「広告文化」を育ててきたと評価もされていると思うのですが、「ん?待てよ」と思ったのが、「予洗い」という言葉の使い始めだったと思われる、ジョイ ジェルタブのCMです。

ジョイ ジェルタブのCM、ウェブで簡単に見つかるだろうと思ってたらどうしても見つからなかったので、そして、「某タレントの実演CMで有名な」というキャプションが見つかって、「あ~確かに実演やってたな」と思ったので、ちょっと今回言いたいことの例に挙げるのは相応しくなかったな、と思ってるのですが、TVCM、昔に比べて、より一層、ロジカルじゃなくなったな、と思ったのです。

昔のTVCMは、「それがどうしてそうなる?」という論理の十分な説明はないにしても、「有効成分ナントカが疲れに効く!」みたいな、いちおう、「その効果の元はこれなんです」という因果の名詞は言ってたような気がするんです。でも、(ジョイ ジェルタブのCMは実はこうじゃなかったっぽいんですが、あくまで例えばの話、)「ジョイ ジェルタブは予洗い要りません!」みたいな、「それなんで?」というとこを一切言わないで、「できます!」としか言わなくなったような気がします。

これは、世間の感覚にやはり敏感に反応しているのではないかと思うのです。今の一般消費者は、何ができるかしか気にしない。「なぜ」できるかは知ろうとしない、できなかったら「責任とれ!」と言えばそれでいい、と思っている節があるから。「できるってゆったやろ!」てなもんです。これは、返品OKが一般的になったことも後押ししていると思います。

確かに、スピード社会だし、モノの仕組みは複雑だし、スマホがなぜアプリ動かせるかなんてどう考えたって判りっこないし、そういうものが増えて、「なぜ」を問うこと自体が相当困難になっているとは思います。だけど、「なぜ」を省略したほうが効率的なように見えて、もし、できなかったとき、そのコストを回収するための様々なコスト(時間とか、請求の手間とか、交渉のストレスとか)は、結局高くついていることが多いと思います。なにより、「なぜ」を問わないことで、自分達が住む社会の思考能力が劣化していきます。当たり前のことが当たり前として作用する、安全で快適な社会は、ひとりひとりが律儀に「なぜ」を考える努力があって初めて成り立つと思うのです。

 

宝物

 「大切なことはいつも旅が教えてくれた」というようなコピーを通勤途中の路上で見た。確かに旅は大切なことを教えてくれる、それは疑いようのない事実だけれど、地下通路の天井にそれは延々と整然と並んでいて、押しかけるようなそれは全く「大切なこと」というありがたさとは無縁に見えた。結局のところそれは旅行会社のコピーだし、今会社に出社しようとしている俺の歩みには「大切なこと」はないと言うことですか、と少し子供じみた反発が、一歩ごとに増してくる。

 俺の宝物と言えば皿だった。皿が宝物と言っても、有名な産地の高級な焼き物という訳でもなく、一生モノと言われる高品質なものという訳でもない。どこにでも売っているポリプロピレン製の皿で、自分で腕枕して寝そべっている漫画のトラが描かれている。今みたいに、手ごろな価格でデザイン性の高い北欧家具が買える、なんて考えられない事実の話だ。中学生にもなってこんな皿使い続けさせるなよ、なんて思いながら、そのトラの絵を右回りに回せばトラが起き上がるように見えるので、そんな遊びをずっと続けていたような気がする。言うまでもないことだけど、なんの特別なところもない、使い勝手に細やかな配慮もされていない、ただ、皿としては最低必要な条件を満たしているだけ、というような皿を、気に入っているからこそ長く長く使い続けた、そのことこそが大切なことなのだ。

 どこかに行かなければ大切なことは手に入りません、という発想も好きになれなければ、どこかに行きさえすれば大切なことが手に入ります、という性根ももちろん好きになれない。なんでもない日常にこそ、大切なことは散りばめられているなんて暢気なことは言えない。ただ、誰かが唆すのに安直に乗ってしまうのが嫌いなだけだ。もし、大切なことがとても足を踏み入れにくい密林の中にあると言われれば、どうにかしてそこに行こうとするだろう。自分にとっての宝物を、誰かから決められたりはしない。

朱に交われば赤くなる

今の会社は、外資系のIT企業なのに、誰かが転職することを少し批難するような風潮がある。ほぼ誰もが、どこかから転職してきた人間なのにも関わらず。

確かに、お金だけを追いかけて、節操なく渡り歩く姿というのは、日本人の感覚的としては好ましくは思えないので、批難含みになるのはもちろん判るんだけど、最近、それもどうかなあと、しばしば、つくづく、思うようになった。

この夏以降、自分の身に起きたことで、いろいろと考えることが多かった訳だけど、仕事をする人間としては、やっぱり社外から欲しいと思われるようでないと、つまり転職できるような人間でないとダメだなあと、つくづく思うようになった。もちろん、以前からそう肝に銘じていたことではあったけれど、会社の中で愚痴に近い不平不満諦めの言葉を言うだけだったり、「売れればいい」的な言い草・姿勢が通るのでそう振る舞う人達に囲まれる内に、だんだんと内弁慶に毒されてしまっていたようだ。

年を取ると変わりにくくなるように、人間的な環境というのは変えるのはとても難しい。なるべく影響を受けないように自衛することと、世界を変えるか、さもなくば別の世界をもう一つ持つことだ。そして、その世界はもう開けている。

山越え

 僕は長い間、今晩が山という言葉を間違えていた。今晩が山というのは、今晩が助かるかどうかの正念場、今晩を乗り越えれば助かる、という意味ではなくて、今晩、ほとんど間違いなく終わってしまうということを、万に一つの可能性は可能性として残っているからそれで厳密に「山」だということで表現を和らげているのであって、今晩が峠という言葉とは、うっかり同じ意味だと捉えてしまうが、峻別するべきだったのだ。峠は、越えることができる。山と言ってしまったとき、それは越えようがないものなのだ。
 祖母を亡くした小学生の時、僕は「山」も「峠」も感じることができなかった。病室に到着したときには、祖母はもうこの世の人ではなかった。学校で給食を食べていた僕と妹は父が迎えに来て、母は先に車を飛ばしていたのだが、僕ら兄妹を連れて病室に入った父に「間にあわへんかってん」と涙を堪えて伝えた場面で、病室の記憶が終わっている。

 朝の通勤ラッシュの地下鉄のロングシートに、お爺さんが座っていた。結構乗り降りの激しい駅に到着して扉が開いてから、お爺さんは腰を上げた。そのお爺さんの前でつり革に捉まっていた僕は、お爺さんが鞄を整え始めていたので、次の駅で降りるんだなと察しはついていた。だから早めに身を開いて降り易くしたのに、お爺さんは電車が止まって扉が開いてから下車の動作に入った。他にも降りる人はたくさんいて、お爺さんが下りる道筋はできそうだったけど、それも乗り込んでくる人で早々に埋められてしまいそうだった。お爺さんはバランスを取って両足で踏ん張ってがっしと立ち上がると、まだ開いていた下車道を確かな足取りで進んでいこうとした。

 あのお爺さんは、今、山を登っている。それが毎朝のことなのか、その日の朝だけのことだったのかは、判らない。そうして、それを一瞬じれったく見てしまった僕も、確かに山を登っていたのだった。