『つながりっぱなしの日常を生きる: ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』/ダナ・ボイド

”ソーシャル"ネットワークってそういうことだったのか。日本じゃmixiもGREEも、"ソーシャル"ネットワークの本義は教えてくれなかったな。

mixi始めたときも、「なんでこれ”ソーシャル”ネットワークなんかなあ」と、なんとなく分かるけどちょっとよく分からん感を持ち続けてたんだけど、この本を読んでかなり理解できた気がした。匿名性の議論とかあったけど、米国でのソーシャルネットワークの本質はそこではなく、若者にとっては、過干渉と過保護が常態になった米国社会では現実世界で友達と会い遊ぶことがままならず、友達付き合いを維持していくために(実際に会うための連絡手段としても)ネットワークの必要性があるということだった。それが米国のどの程度のエリアに該当することなのかは分からないけれど、輸入された”ソーシャル・ネットワーク”からは感じ取れなかった本質だった。

デジタル・ネイティブについての警鐘も括目だった。私はWIndows95が世に出回る少し前、インターネットが爆発的に普及する少し前、携帯電話が普及する少し前に社会人になった世代なので、子どもの頃から携帯やインターネットを使いこなしている世代というのは、新聞は紙で読むもの辞書は手で捲るものという我々とは、一様にデジタルに対する習熟度が違うと思いこんでいるが、本著の言う通り、

情報への新しいタイプのアクセスを可能にするが、人々がそのアクセスをどう経験するかはどうしても不公平
なのだ。そしてそこに新しい格差の種が芽生える。言ってみれば、投資家の子どもは自ずと投資に親しみ投資の基礎知識は持ち合わせ投資に抵抗なく大人になるだろうし、不動産業の子どもも同じくそうだろう。もちろん、大人になってからキャッチアップする機会はあるにはあるが、そこまでに得る経験はどうしても不公平なのだ。だから、若い世代をひとまとめにして「デジタル・ネイティブ」と見做すのは、本著の言通り「害悪」である。

社会学者ピエール・ブルデューは、『ディスタンクシオン』で、ある人の教育と階級における位置づけがいかにその人の趣味の在り方を形作るか」

たとえ米国であっても、見たことのない風習に対して大人ー古い世代は不寛容であり同一視してしまうものなんだというのを知れたのが、最大の読みどころだったかも知れない。文章が洗練されていること極まりなく、個別事例を引用して状況を説明するまでの流れがこれ以上なく滑らかで読んでいて爽快感さえあった。