『ソハの地下水道』

僕の日常というのは、なんと腑抜けた日常なんだろう。
「命の大切さ」なんて軽々しく言っていい言葉ではない、そう思った。

第二次大戦中、ナチスドイツの占領下にあったポーランドが舞台。もともと多民族主義の伝統のあるポーランドは当時ヨーロッパでもユダヤ人が最も多く居住する国のひとつ。ホロコーストを恐れ下水道に逃げるユダヤ人が、その下水道で、下水修理を生業とするポーランド人のソハと鉢合わせする。通報を恐れるユダヤ人。しかし空き巣を副業としている俗物のソハは、通報しない代わりに金銭を要求する-。

まず「死」のあまりにありふれた光景に脳天がくらくらする。下水道に大勢のユダヤ人が逃げてきた後、現実的に匿い続け切れないと判断したソハは、「11人選べ」とユダヤ人達に言い放つ。ユダヤ人達はいったい誰を選ぶのがいいか言い合いになり、せめて12人と言い、そういううちに14人、15人となり、ソハは「ユダヤ人というヤツは命まで値切るのか」と怒鳴る。そうして、匿われる11人が決まり、移動を開始する。

え?え?残りの多数のユダヤ人は、地下水道で見殺しになるのか?-なるのだ。そして、当然のように餓死し、ソハは「遺体は隠さないといけない」といって、地下水道から出た川に遺体を投げ込む。なんの造作もないように。

ソハは全く善人じゃない。盗人だし、命と引き換えにユダヤ人から金を巻き上げる。しかし、その巻き上げた金で彼は食糧を買い、危険を冒し、地下水道を通りユダヤ人に食事を運んであげる。そういうソハの日々を観ながら、観ている僕の胸は常に不安が支配する。「ユダヤ人も、無尽蔵にお金がある訳ではないだろう」「この地下水道生活が、いったい何カ月持つというのだろう」。

事実、ユダヤ人のお金は尽きてしまう。ユダヤ人グループのリーダー各の老人がソハにそのことを打ち明けると、ソハは言う。「そのことは皆に言ったのか?」いや、と老人が首を振ると、ソハは自分のポケットから札を取り出し渡していう、「いいんだ。みんなの前でこれを渡せ。お金も貰わず支援するヤツだと思われたくない。」

簡単に人が死に、人が殺される状況のポーランドの中で、家族さえ巻き込んでまでユダヤ人を匿おうとする俗人の心の葛藤なんて、僕にはスカイツリーから飛び降りたって多分ちっとも理解することはできない。僕はあまり映画を観る生活を送ってないので、もしかしたら、この映画の描写に勝る映画もたくさんあるのかも知れない。でも僕にとってはこの映画は、今の僕の日常や、目に飛び込む日本国内の数多のニュースになる出来事や人びとの、ほとんどすべてを、特に自らが「大変なことです」とぬけぬけ言ってる出来事を「ばかばかしい」と思わせるに十分な衝撃力だった。この、ソハという「ただの人」が、実際に命を賭してやり切ったことはいったい何なのか。彼は決して善行を果たそうとして、自らの行いを善としてやり続けていたのではないと思う、そういう意識ではないと思う、でもだったらいったソハの行動はなんだったのか。もうどうしても僕はこのソハの心理の深層に迫りたい。映画が何かを言えるのだとしたら、僕はこの映画のようなことを言ってほしいと切に思う。

それにしても、日本ではテアトル梅田という比較的小規模な劇場で上映されるような作品に、こんな凄まじい映画が出てくるなんて、ほんとに率直に言って日本の映画というのは大半が暇つぶしみたいな、せせこましい、突き詰めてないうわっすべりなものなんだな、と思いました。