2012年最後の読書は、久し振りにジャケット一目惚れ、タイトル一目惚れ!が、しかし、難しかった・・・。
グリーンを基調としていて、少年が駆け出していて、下、半分よりも気持ち少ない面積が単色で塗り込められた表表紙。そしてタイトルが『ロスト・シティ・レディオ』。この洒落っ気ある一冊が南米生まれ合衆国育ちの現代作家の作品で、間違いなく好みの本だと手を伸ばす。
『ロスト・シティ・レディオ』は、この物語の舞台である架空の国のラジオ番組。内戦が続いたその国で、行方不明者を探すリスナーの電話を紹介する人気番組。その番組の司会である、誰もが恍惚とする声の持ち主、ノーマが主人公。ラジオ局のノーマのもとに、ジャングルからひとりの少年がやってくる。少年は、ジャングルから消えた人びとのリストを持っていた。「ロスト・シティ・レディオで呼びかけてほしい」と見せられたそのリストに、行方不明のノーマの夫の名前があった。
ノーマと、その夫レイの間の物語として読むならそれほど難しくない。ノーマは、レイのすべてを知らされることはなく、レイの不在の時間にレイに起きた出来事も当然知ることはできず、読んでいる側はその「知れない」苦悩を目の当たりにして、人生の困難さを考えることになる。
けれど、『ロスト・シティ・レディオ』は、そこにだけ焦点を当てているようには思えない。ダニエル・アルラコンの文章は、情感をほとんど抑えた、事物や行動の描写でありながら、内戦や政治といった「事象」の説明は極端に少なく、人びとの暮らしそのものの描写が重なっているんだけど、その人びとの窮屈で困難で恐怖に満ちた生活の炙り出しが、内戦や政治の凶暴性を伝えてくる。ノーマが、レイのすべてを知れることはない、それはどうすることもできないのと同じで、内戦や政治も、人びとが直接には「あまり」どうすることもできない。
「内戦」をどう解釈すればいいのか、「内戦」は少し生々し過ぎて、これを何かの隠喩と捉えて解釈するのがとても難しかったのだけれど、内戦も政治も「あまり」どうすることもできない、と人びとが「諦める」様が、このように描かれる:
あることと、その正反対のことを同時に信じ、怖れていながら同時に向こう見ずでいることはできる。偽名で危険な論文を書き、自分自身は公正な研究者だと信じる。・・・(中略)・・・戦争状態の国家は悲劇だが、自分の手によるものではないというふりをする。自分はヒューマニストだと公言しつつ、鋼のような意思で憎む。
本当は自分もその状況に陥る選択の当事者なのに、「あまり」どうすることもできない状況だと決め付けてやり過ごす。この「分裂」は、一瞬、「ディビジュアル」という概念を提示した『ドーン』を思い出すけれど、それで片づけて良いのだとこの著者が語っているようには思えなかった。
それは何故なんだろう?どうしようもない状況の中でも、人は逞しく生きていくことができる、いや、生きていくしかないんだよ、という、現代文学におけるティピカルな主張ではないように感じながら読んだのだけど、それが何故なのか、そして著者は何だと主張しているのか、それは一読だけではわかりませんでした。段が変わってしばらく読んだら唐突に時空が変わっていた、というような挿話のされ方に頻繁に見舞われ混乱しながら、読み終えてなお「ロスト・シティ」を自分の身の周りにうまく引き付けられなかった。
ロスト・シティ・レディオ (新潮クレスト・ブックス) ダニエル アラルコン Daniel Alarc´on 新潮社 2012-01-31by G-Tools |