『山椒大夫・高瀬舟』���森鷗外

山椒大夫・高瀬舟    新潮文庫
新潮社  1968-05

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 自分で自分のことを割と近代文学好きだと思ってるんだけど、森鷗外はあまり読んでいなくて、その理由はやっぱり教科書で読んだ『舞姫』だと思う。ちっとも面白くなかったのだ。今読めばたぶん面白いと思うんだけど、教科書で読む『舞姫』というのは、ここに踏み込まないと面白くない���というところに踏み込まないので当然面白くない。『蛍』が受験問題集で読んでどっぷりはまったのとは雲泥の差。

 『プレジデント』で森鷗外の紹介があって、伝記を読むといいと書かれてたんだけど、買いに出かけたジュンク堂では見つからず、代わりにこの『山椒大夫・高瀬舟』を購入。

 『高瀬舟』は安楽死がテーマだ。何よりも驚いたのは、『高瀬舟』が安楽死がテーマの小説だったことであり、この時代から安楽死の問題意識があったことだ。あるいは、もっと昔から当然のようにあったものかも知れない。逆に、苦しんでいる者がいれば安楽死させることが当然であって問題にならない頃もあったのかも知れない。
 喜助は不治の病に苦しむ弟が自害するのを手助けした。字面で書けばそういうことになる。弟は自分の手で剃刀を喉に突き刺したが死にきれず、喜助がその刺さった剃刀を抜いてやることで果てたのだ。喜助は抜かずに医者にかけてやればよかったのか���一命を取り留めたところで不治の病に苦しむ日々が待ち構えているだけだ。喜助に負担をかけているという気の病みとともに。そう思った喜助は、どう振舞うのが正しかったというのだろうか���そしてこれを書いているのが医師でもある鷗外というところに妙があり、縁起まで記されているところが奥深い。
 安楽死を求めるような苦しみが身体に及ぶ苦しみだけなのか、精神的な苦しみは値しないのか���精神的な苦しみによる自害の場合、どちらかと言えば「自害」という行為に至るまで周囲がその苦しみの大きさを測れなかったところに悲しみがあることが多いように思う。安楽死の問題は、それを他人が介助することによる、介助する側の悲しみも問題にあがる。最初に思ったのは、安楽死というのは現代特有のテーマでは全然なかったのだということで、他のたくさんの社会問題と同じく、現代特有だとしたり顔になればなるほど解決から遠ざかってしまっているような遣る瀬無い気持ちである。