プロダクトデザイナー秋田道夫氏講演会「しあわせにするデザイン」 #jbnsgt3 #jbnsgt3k

ここ最近の自分の活動でエントリしてないことがいくつかあるので、そういうとき、時系列に書き始めるべきか、それともとりあえずリアルタイム性を重視して最近のものから書き始めるべきか迷うんですけど、今回は昨日参加させてもらったこのセミナーから。

art around NARA主催の、プロダクトデザイナー秋田道夫氏講演会「しあわせにするデザイン」。

この講演会は水曜か木曜くらいに偶然知って、奈良でおもしろいセミナーがあったらなるべく参加してみようと思ってたので、申込みました。秋田道夫さんは、恥ずかしながら存じ上げませんでした。art around NARA/藝育カフェsankakuは以前から知っていて、奈良でめずらしいことやってるなあ、拠点も構えてるんだ、と思ってツイッターでチェックしたりはしてたんですが、今回、初めて活動されているものに触れられるなと思って申し込みました。「おもしろいセミナー」と思ったところは、

  • セミナー紹介で秋田さんが「信号機をデザインした方」と言うのを知って。
  • そんな凄い方が来るのに、セミナー会場が、(僕は土地勘あるのでイメージできるんですけど)あんな小っちゃいとこでやるのか。

というちょっと種類の違う好奇心(笑)がいくつかあって、です。

まずセミナーに参加するにあたって、いくら門外漢とは言え、ある程度の予習は必要だろうと、下記エントリを読んで行きました。

秋田道夫さん:

wikipedia 秋田道夫 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E9%81%93%E5%A4%AB
information(秋田さんのブログ) http://www.michioakita.jp/whiteboard/ 
(特に3/7の「継続性」というエントリ)

やまもとあつしさん:

移山倒海:(やまもとあつしさんのブログ) http://kentikugeinin.jugem.jp/?eid=970

で、参加したメモから:

  • 一人称の普遍的問題。「私」≒自分 「私」にとっての「私」と、誰かにとっての「私」
  • ゲーム理論における「相手の立場」。「相手の立場」に道義的価値観を滲みさせ過ぎない。感じ過ぎない。もちろんあってもよい。
  • 捨てる≒減らす
  • 「不便」と「工夫」 promotionの問題 存在し続けるべきか?
  • suica 山中俊治
  • 「言い易い代表作」
  • 人は人に興味がない
  • ファッション≒デザイン
  • 楽しむことを優先する、かどうか
  • 言葉は、誰が言ったかで変わる → それに対峙する

メモを観ながら、今改めて思いついたことをいくつか:

  • 参加前の興味として、僕はシステム設計をやっているんですが、システム設計の現場というのは、お客様は、必ずしもシステムに通じている訳ではないので、システムの用語でしか会話できなかったら、システム設計者としては三流にしかなれない訳です。秋田さんは、”「僕はあるときからデザインの勉強をやめた」そのかわり、「デザインを知らない人にデザインのことをわかってもらうための語彙を増やす勉強を始めた」と仰ったそうで、この感覚を持っている方のお話は少しでも聞きたいな、と思ったのでした。
  • 「言い易い代表作」の話。信号機とか、一本用ワインセラーが当たったので円筒形のものを立て続けて「円筒形が秋田道夫」みたいになるように仕向けてみたとか。「名刺代わり」というものを、その安易に判断される(というよりも、人々が安易に判断してしまうことで、人が人を考える力が弱まってしまうから)ところから好きじゃなかったんだけど、秋田さんは、もともと同じようなことばかりやっても詰まらない、でも、「言い易い」のがあってもいいんじゃないかと思ってやってみたと仰っていて、その「良かれとおもう価値観」が行ったり来たり試行錯誤するところは感じ入るところがあった。
  • 「言葉は、誰が言ったかで変わる」の話。「言い易い代表作」の話のエッセンスのひとつとクロスするけれど、これは現実であり、否定することはできないことだと思う。そして、その現実の普遍的なルールに乗っかっちゃったほうが、ものごとははるかにスムースに、楽に、進められることも事実である。けれど、ラングとパロールとエクリチュールの問いかけを引き合いに出すまでもなく、「まったく同じ言葉で組み立てられた一文なら、誰が言ったとしてもその価値は同じ」なはずである。その背景のコンテキストを読み取ることを、誰が強制できるというのだろう?その背景のコンテキストを、読み取らなければならないとしたらそんな不自由なコミュニケーションがあるだろうか?発信者は、表さないコンテキストの読み取りに、甘えてはいけないのではないか?発信するものがすべてであり、そこに発信されないコンテキストに裏口を隠して拵えておくような行為に思えてならない。

そしていちばん興味があったのは「ケトル(だったと思う、たぶん)」の話。

秋田さんがかつてケトルをデザインされたことがあって、そのケトルはクロムメッキ?っていうんですかね?たぶん、iPhoneの背面のような、ピッカピカのメッキ、なんだそうです。普通、ケトルをあんなメッキにはしない。指紋はべたべたつくし、使い辛い。普通は、ヘアラインにしたりするもの。それをなぜあえてピッカピカのメッキにしたかというと、中国の生産工場を見学に行って、そこで見た生産現場の環境の劣悪さ。ヘアラインなんかお願いすると、金属粉で働いている人が大変な目に遭ってる。だったら、まだ少しでもましなピッカピカのメッキのほうがいい。あれなら磨くだけだから。そこを変えることで、中国の働いている人の不幸を、少しでも減らして幸せに出来た、と思う。

「なるほどな」、と思ったんですけど、少し疑問が出てくるところもあって、

  • それを買う側の僕らにとっては、どうなんだろう?「嫌なら買わなければいい」と言えばそれまでだけど、ヘアラインよりクロムメッキのほうが高いなら、たぶん買う人は少ない。それによって新たな使い勝手とか、新たな面白さがあれば別だけど、もし、買う人が少ないなら、生産そのものが中止になって、その中国の工場の仕事は減るのではないか。もちろん、独占契約してる訳じゃないだろうから、次から次へと仕事は来るんだろうけど、持続可能でなければ、プロダクトデザインとしては、どうなんだろう?そのときの一瞬だけでも、中国の労働者の健康被害を軽減できたなら、それがプロダクトデザインにとって出来たこと、なんだろうか?でもプロダクトデザインの第一対象はやっぱりユーザだと思う。
  • 仮にヘアラインのほうがコストも使い勝手も何もかも勝っていたとして、それでもピッカピカのメッキを選ぶことによる中国の労働者の健康被害軽減を優先したところに価値のあるプロダクトだったとして、買い手はそれがわかるだろうか?いちいち、売り場で、その説明文句を読まないとわからないのではないだろうか?確かに、コンシューマーは賢くなるべきで、その背景となるものを弛まず知ろうとする必要はあると思う、だけど、その努力をどこまで強いることができるのだろう?それをいちいち、文句(言葉)で伝えなければいけないというのは、やっぱりちょっと違うんじゃないだろうか。僕の仕事はシステム設計で、最終的には機能が満足に使えればそれでいいよ、としか言われない現場だけど、どうやってそれが満足に動いているか、という苦労を聞いて関心してくれるユーザはまずいない。というよりまず理解できない。そんなユーザへ向けて、それでもわかってもらえるようなアウトプットを日々生み出そうと奮闘しているのだ。