『暇と退屈の倫理学』/國分功一郎

できたら、「暇と退屈の経済学」が欲しかったな。

とにかくおもしろかった。掛け値なしに。これは誰にでも読んでほしいけど、とりわけビジネスマンに読んでほしい。それも、「社会とはこういうもんだ」「会社とはこういうもんだ」というような、定番のセリフを口にする、「諦めてる」ビジネスマンに。それにしても、年初にこんなことを書いてすぐにこういう本に巡り合えてしまう自分の引きの強さに感服(笑)。

新年最初に観たTV番組で、有名企業の社長さん達が寄ってたかって
「最近の若者は、豊かな時代に育ったのでハングリー精神がない」とかお決まりのこと言ってたけど、
オレに言わせりゃ、飢えてなきゃいい仕事できないほうが進化がないと思うのよ。
貧しいから頑張ってきたんだから、豊かになることは判ってた訳でしょう?
その時代に諸外国を見てきたんなら、先に豊かになった国の「先進国病」も見てた訳でしょう? 
「豊かになったとき、どんな倫理観・価値観を打ち立てるか?」という大事な命題をほったらかしにしてきた、そういう世代に、今の若者のが無気力というなら、その責任があるんじゃないの?

僕は、歴史は終わらないと思う。それは、一日中暇になるような世界は、経済が許さないから。本著も、マルクスが語ったのは「労働日の短縮」であって「無くすことではない」と言っているけれど、経済は、今までのやり方をより短時間で、より簡単に、より効率的にできるようにして「余暇」を産み出す方向に動きながら、その一方で、その動きは新しい「余暇の削減」を生み出している。本著に沿って言うと、より短時間で、より簡単に、より効率的に、という動きは「習慣」の獲得で、新しい「余暇の削減」という動きは、「退屈の第三形態と第一形態のセット」ということになると思う。より具体的な例で言うと、情報通信技術は正にそれだと思う。情報通信技術の発達で、生産も、ニュースの伝達も、医療も、ありとあらゆるものが、より「習慣」化されていっているけれど、人々は「携帯」により時間を注ぎ込んでしまい、「余暇」は削減されていっている。本来なら、モノを考えるべき「余暇」は、ソーシャルと言われる、双六よりもあっけない携帯ゲームの中に「消費」されてしまう。

だから、歴史は終わらない。世界は終わらない。最適な「余暇」の比率なんて、誰にもわからない。

僕が「できたら”暇と退屈の経済学”が欲しかった」と思ったのは、本著はカバー裏表紙にも書かれているように、ウィリアム・モリスを引合いに出し、「わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない」という問題意識で貫かれているんだけど、現在の世間の不安感というのは、「パンだけを求めねばならない世界に、戻ってしまうんじゃないの?」という不安感のウェートが高まってきてるんじゃないかと思うから。

「生きることはバラで飾られねばならない」という姿勢は、「革命が起こってしまったらその後どうしよう」とウィリアム・モリスが考えたのと同じように、「ある程度、パンには困らない世界が出来上がっていて、なおかつ、そのパンを得るために四六時中、仕事をしなくてもよい」世界に住んでいるから、考える意味のある命題だと思う。実際、現代日本で起きていた空虚感とか、素人目には病理としか思えないような精神的な出来事の数々は、高度経済成長期を経て、「余暇」を持てるようになった日本社会が、「暇と退屈」について考え抜くことをしてこなかった結果だと僕は思ってる。「余暇」が出来たのに、そこにも更に「働け、働け」とやっていけば破綻するのは目に見えているし、「余暇」を「退屈の第二形式」で過ごすことの意味を捉えようとしていなかったからだと思う。でも、今の経済状況は、「後戻りするのかも知れない」という不安が中心にあると思う。「今は、そこそこパンには困らないけれど、明日、急にリストラにあって、退屈の第三形式を経ずに、退屈の第一形式に叩き落されてしまうかもしれない」という不安。そういう不安が広がる中では、この『暇と退屈の倫理学』は、少し上滑りに感じてしまう。「やっぱり、思想では食えないよね」というような。

もちろん、そういう循環の構造もまた、『暇と退屈の倫理学』では考慮されているし、かつ、そこにウェートを置くのは本筋ではないというのは判ってます。でも、どうしても、本著の進み方というのは、「右方上がりの経済」的な、「経済は進化する」前提で成り立っているようで、そこが、現在起きている不安を少し取りこみきれないのかな、と思う。

なので、結論章で、「本著を通読することで、読者であるあなたが何を考えたか大事なのだ」という訴えには何も反論するところがなく、現代が「安易に結論を手に入れたがる」社会であるのは、「考える」という重労働、つまり「不法侵入」に耐えかねてすぐに「習慣」に逃げ込もうとするからだ、ということになるんだけど、それでも少し食い足りない気持ちは残った。余暇が生まれることで、考えることができる、考えてばかりではなく、「退屈の第一形式→第三形式」と「退屈の第二形式」が入り混じり、考えつくされたことについては「習慣」となり、考えることだらけになる訳ではないのが「生」、なんだけど、その「考える」ための時間である「暇」は、現在がもしかしたら最大で、縮小していくのかも知れない。

もう一点、「贅沢」に関して、「浪費」と「消費」の違いを説明する際、「物を受け取る」と、「物」という単語を使っているところが、若干、判りにくかったかな。僕は、ここでいうのは、明らかに、実体を伴う「物質」ではないと思っているんだけど、実は、実体を伴う「物質」を受け取れることだけが「浪費」だと、著者は言ってるんだろうか?

425500613X 暇と退屈の倫理学
國分 功一郎
朝日出版社 2011-10-18

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