もちろん観ました「哲子の部屋」! やっぱり「暇と退屈の経済学」が欲しいな、と思ったのでした。
30分という限られた時間で選ばれたテーマは、「浪費と消費」でした。納得。
「浪費」と「消費」について、凄く判りやすく構成されてました。「浪費」するためには、「モノ」とどう対峙するかが大切。「消費」はイメージ-いわゆる「記号」-が対象なので、無尽蔵になり、その結果、いつまでも満足が得られない。だから、「浪費」しよう。「浪費」は限度のあるものだ。終わりが来るものだ。なぜか。対象が「モノ」だから。
これはすごくすんなり頭に収まるんだけど、「でもなあ」という声が頭に登る理由は、やはり「消費なくして生産なし、生産なくして稼ぎなし」という、資本主義社会に生きる切実なルールに抗えないからだと思う。消費は、番組でも言っていたように、「魔法の仕組み」なのだ。もともとは「万人が必要なモノを、安価に大量に提供する」ことが目的だったかも知れない大量生産のシステムの中で生きていけている僕達は、「消費」が何かを狂わせていることは判っていても、それをどう乗り越えてどんなシステムを描き実現すればいいのか、うまく想像できないでいる。そう、番組中で紹介された、『ファイル・クラブ』のダーデンのように。
消費は終わりがない、けれども無限に続くということではない。消費が魔法なのは、「消費」という一つの概念の中に、破壊と再生の両方を含めることが出来たからだ。消費は、破壊と再生を無限に繰り返して終わりがないのであって、消費ということをいつまでも続けられるということではない。もちろんイメージの消費は消費を無限に続けられるけれど、ここで問題になっているのはイメージ=記号に掻き立てられた、モノの消費だと思う。
だとしたら、「浪費」を大切にする仕組み、すなわち「モノ」を存分に大切にする仕組みというのが、いわゆる「ロングライフ」のような取り組みではないことは明らかだ。なぜなら、「ロングライフ」ということ自体が消費そのものになってしまっているからだ。「ロングライフ」という考え方自体は色褪せないように見えるかもしれないが、それによって実現できていることというのは他ならぬ「消費」だ。何かとってもいいモノがあったとして、それをどこまで扱えばそれは大切にしたことになるのか、十分な線などないのだ。僕たちはまだ見ぬ形で、「浪費」を実現しなければいけないのか、それとも、それすらも「消費」して行きながら、変転する経済社会の中で次々と「浪費」に値する仕組みを見つける不断の努力を強いられるのだろうか?