『バートルビー/ベニト・セレノ』/ハーマン・メルヴィル

『バートルビー』を読もうと思ったのは、「偶然」というテーマに少し興味が向いていたところに「バートルビー 偶然性について」という書籍が出版されたことを知ったから。以前に、エンリケ・ビラ=マタスの『ポータブル文学小史』を読んだ際、同じ著者の作品で『バートルビーと仲間たち』という小説があるのを知っていたり、モーリス・ブランショの『災厄のエクリチュール』で取り上げられているとかで、まずは『バートルビー』を読んでおかなければいけないと思って読みました。

I would prefer not to. この呪術的な言葉。代書人として雇われたバートルビーは、代書以外の仕事を、悉く「I would prefer not to.」と言って拒否する。それも穏やかに。そして、そのうち代書すら拒否する。雇い主である「わたし」はバートルビーを追い出したいが、なぜかバートルビーに面と向かうと強く出れない。困り果ててバートルビーを残して引越しするという手段に出るが、その後もバートルビーは建物に留まり、新しい入居者たちからなんとかしろと迫られる。「わたし」は何もいい手を打てないが、建物の管理人は、バートルビーを刑務所送りにする。刑務所でバートルビーは、モノを食べることすら拒み、餓死してしまう。後に、代書人だったバートルビーの前の職業が、「配達不能郵便物係」だったことを噂に知る。

言葉の埋葬人のような職業から、言葉をあっちからこっちにコピーする職業へ。そしてそれさえも拒んでしまう。言葉というものの限界を悟るようなその生涯。そして、I would prefer not to. 「せずにすめばそれにこしたことはない」というようなこのスタンス、モーリス・ブランショだけでなく、いろいろな解読がなされていてそれを眺めるだけでもおもしろいのだけど、僕は、「なんでもやれるけど、どれもあんまりやる気にならない」という、「飽食」の一歩進んだ姿のように見えた。制限があるとき、やりたいことがやれないとき、そういう状況は、人を夢中にさせる。それは、「できない」という状況があるからで、「できない」ことを「できる」ようにするモチベーションは、本能的に、自然に、湧いてくる。

いっぽう、「なんでもやろうと思えばやれる」状況というのは、夢中にさせてくれない。「明日でいいか」と、こうなる。だから、「I would prefer not to.」こんな言葉も出てくる。その結果、バートルビーは死んでしまう。「I'm not particular.」なんてことも言いながら。これは、「なんでもやれるようになるというのは、結局、なんにもやらないのと同じこと」という含意なんだろうか?それはなんとなく、なんとなくでしかわからないけれど違う気がする。I would prefer not to.というのは、もはや何か言葉を発することさえ捨ててしまうような態度だけど、言葉を捨てるということが何か新しい可能性に繋がっているような気配がある。このあたりの課題を携えて、「バートルビー 偶然性について」にあたることにしよう。

4990481127 バートルビー/ベニト・セレノ
ハーマン・メルヴィル 留守晴夫
圭書房 2011-01-10

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