「仏像はなぜ撮影禁止なのか」を考えることでわかること

白毫寺の宝蔵入ったところに、「仏像はなぜ撮影禁止なのですか」というQ&Aが書かれていた。

建物内が撮影禁止の寺院はめずらしくはないと思う。そしてだいたいの人は、いちいち言われなくても、建物内、とりわけ仏像の類は撮影禁止だろうな、と了解してると思う。でも、なぜ撮影禁止??と問われてみると、頭に抱いているその答えを言葉にするときに、躊躇のない人は少なくないんじゃないかと思う。

白毫寺は簡明にこう教える:

「仏像は信仰の対象であって、鑑賞の対象である美術品ではないからです」

それ以上でも以下でもない。仏像の撮影禁止を調べると、推測されているいろんな理由が出てくる-フラッシュの光も悪影響だとか、著作権とか。そして、実はそういうのが禁止をしている本当の理由で、「仏像は信仰の対象であって、鑑賞の対象である美術品ではないからです」というのは表向きの、建前の理由だろうと言われたりする。

ここに見え隠れするのは「心がけ」の問題だ。事が宗教という、特に日本ではあまり真剣に扱われないことの多いものであったとしても、だからと言って真の理由は経済的な事情に起因するもの-撮った写真で金儲けされたら困るとか-だと考えること自体が、「心がけ」がなっていないということだ。確かに仏像は信仰の対象なのだ。写真を撮ったその人が、写真に対して拝むことは教義に反することなのだろうし、そもそも写真を撮った人が後日綿々とその写真を見続けるということもあまり想像つかない。つまり、その写真はただの「記録」、よく言って時折の「観賞用」というものだ。仏像の本来の使われ方からは程遠い。

こういう理由であることを、正面から受け止めて正面から語ることができるかどうかというのが、「心がけ」を実現する基礎だと思う。

ちなみに写真は白毫寺で買ってきた「閻魔様手ぬぐい」です!手染めですって。