『青春の終焉』/三浦雅士

この、圧倒的に打ちのめされる感じが、評論の醍醐味。

「青春の終焉」というタイトルだけで、もうビッと来た。何が書いてあるかはすぐわかったし、読んでみたいと思った。この本を書店で見つける数日前に、別の書店で買った『反哲学入門』の帯で見た名前が著者だというのも、この本は読まなければいけないというサインだと思った。そして、期待通りの面白さだった。最初の1ページから最後の1ページまで、ずっとおもしろいおもしろいと思いながら読み続けられた評論は久し振り。原本は2001年刊行、なんで見つけられなかったんだろうと思うくらい。「青春の終焉」というテーマについて、「そもそも青春とはあったのか?あったとすれば、それはいつからあったのか?」という問いの設定からおもしろくて、1972年生まれの僕にとって物心ついた頃からずっと胡散臭かった「青春」について、余すところなく徹底的に解剖してくれる。

僕にとって「青春の終焉」以上に大きなインパクトだったのは、「連歌」の話。連歌は15世紀に宗祇が完成させた知的遊戯だが、僕は連歌のことを単なる「知的遊戯」だと思っていた。その当時の知的階級=特権階級が、どれだけの知識量を持っているかを背景に戦う知的遊戯。事細かに規則が決められ、その規則を知らないことが野暮扱いされ、元は「おもしろさ」を保つためだった規則に雁字搦めになって芸術性を保てなくなる詩歌の類同様に下火になったというような理解をしていた。

しかし、連歌を考えるときに大切なのは、「座」だった。連歌というのは複数でその場に集って句を読み合うので、必然的に「その場所に集まれる」人達とのつながりが大切になる。というか、その地理的なつながりがないとできない遊びだ。そうして、連歌は前の人の句を受けて読む訳だから、どうしても何か共通の「おもしろい」と思える感覚が必要になる。それは土地に根付いたものなのかどうなのか、かくしてその「おもしろさ」のための規則が生まれたりしたようだけど、僕にとっては、この、「座」という場所は、当たり前のように「共通の言語」を持たなければならないという事実に、改めてインパクトを受けたのだった。

僕はコミュニティが特権意識を持つことがとても嫌いで、コミュニティが特権意識を持つために「共通言語」が必ず生まれると思っていた。言語だけではなくて知識もそうだけど、先にコミュニティに入っている人は後から入る人よりも当然たくさんのコミュニティ内で必要な言葉や知識を持っていて、それをオープンにするかクローズにするか、というようなところで嫌悪感をよく抱いていた。しかし「座」にとってはそれは当たり前のことで、さらに重要だったのは、それを「座」だけのものにしておこう、という姿勢もあった、ということだ。それを「座」だけのものにしておくことで、徒に句としての高尚さを競ったり、難渋な解釈を覚えたりすることを避けることが出来、「座」の一同は、いつも楽しくおもしろく連歌を愉しむことができる。それを担保しているのは、共通言語であり共通知識なのだ、と。

その分岐点となるのが、口語か文語か。「座」というその場限りの口語で留めておくのか、後に残すために「文語」を選ぶのか。「文語」を選んだ途端、「おもしろさ」を犠牲にせざるを得ない。なぜなら、「文語」は「座」の存在する土地を離れてしまうから。何が「共通」するかわからない地点に飛んで行ってしまうから。「文語」を選んだ途端に、「笑い」を失っていく文学。

何かが一斉に流行することは昔からあったけど、これだけ「個性」「個性」と言われるなかで、あれは「森ガール」が端緒だったのか「沼ガール」が端緒だったのか、「ある程度」の固まりが出来るような流行がときどき発生し続けているのは、個人社会になって細分化された社会のなかで、やっぱり「座」が欲しいと叫んでいる証左なのかも知れないと思った。流行歌のない時代は寂しい、というようなことを登場人物が言ったのは重松清作品だったと思うけど、やっぱり人は「座」が欲しいのだ。

4062921049 青春の終焉 (講談社学術文庫)
三浦 雅士
講談社 2012-04-11

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時折街で耳にとまる そう流行歌さえ
愛の詩と気づかすような
熱い熱い想い胸をこがす様な日々が
消えちまっちゃ終わりネ