『太陽の南、国境の西』/村上春樹

生まれて初めて、村上春樹の作品を、著者の言わんとしているところに沿わずに読もうとした小説だと思う、たぶん。

高校生時代から20年ちょっと、村上春樹の作品を読んできているので、村上春樹の作品の、少なくとも「オモテ面」の著者の意図は、掴み取りながら読めていると思う。あくまで「意図」で、作品の「意味」ではないけれど、ある程度、オモテ面の意図なら間違わずに読み取れると思う。もちろん、本著も、いつも通りならきちんと「意図」を探し、「意図」に沿って読み、「意図」を掴みとれたと思うけれど、僕はそれとは全く違う風に本著を読んだ。僕にとっての主題は「八百万」だった。

物語の後半、主人公の妻・有紀子の父が、「確実に儲かる」と言って、株を買わせようとする下り。主人公は建築業を営む有紀子の父から資金を提供され、ジャズバーを二軒うまく経営していた。主人公が途中語る「引け目」のようなもの、近しい誰かからたまたまうまく資金を得られたからうまくやって来れているという自責に、僕は主人公のように裕福ではないけれども、たとえば「たまたま」日本に生まれたことで他の貧困国と比較するとうまくやって来れている、という自責が生まれることはある、そして主人公はその「確実に儲かる」話の下りで、とうとうその自責を爆発させてしまう。

その自責の爆発は、純粋に経済的な、生活的な、働き的な理由だけで起きたものではないことは自明のように思う。主人公は、島本さんとの事態で抜き差しならなくなっていたのだ。だから、今の自分の、敢えて何かを取りたてようとしても取り立てるところもないくらいの満ちた生活に、違和感を覚えざるを得なかったからだ。そんな状況が、自責の爆発の背中を押していたと思う。でもそれでも、村上春樹が1995年の10月にこの下りを描いていたことに、驚きを禁じ得ない。そしてその下りを、ほとんどの村上春樹の作品は刊行されると同時に読んできたのに、どういう訳かこの『国境の南、太陽の西』だけは手にも取らずにここまでやってきて、そして今、自分の道に迷いのあるこの状況で読むことになるなんて。

主人公のこの懊悩は、あくまでその経済的な生活基盤が揺るぎないものだからこそのもので、ほんとうにその経済的基盤を失うような状況に差し掛かっても、「少しずつ自分が空っぽになっていくような気がするんだ」なんて呑気なことを言ってられるものかどうか。たぶん、それが言えるような人こそが経済的基盤を得ることが出来るのだろう。

そしてそれを言えないような人は、実は日々空っぽになっていることに気付かないまま、別な不安や不満にばかり付きまとわれてその一生を終えるのだ。本当に恐れるべきはその「空っぽになっていく」ことなのに。

主人公は、起こったことが起こってなかったことのようになっている真空地帯で呆然とする。起こってなかったかのようだからといって、起こっていないということにはならない。そして、時間が経つというのは取り返しのつかないこと。一度は起きたことが、通り過ぎてしまったとき、起こっていないこととして生きていくことは、容易いことなのか、許されることなのか。この真空地帯にいてるときの気分、何をどう考えればいいのかさえ浮かばないような脱力した空気、とてもよく判ってしまう。

何不自由なく与えられた経済的基盤に嫌気を感じ捨てようとし、取り返しのつかないことを自分だけのことのように振る舞い、真空地帯で宙ぶらりんに悩むときでさえ-資格という言葉をもち出してきてさえ-自分が中心で相手に問うことを知らなかった主人公にシンクロすると、やり直してもやり直しても結局何も変わらないのではないかという絶望の感しか抱かせないようだ。だが、少しだけ、もしかしたら何かは変わるのかもしれないという微かだが大きな希望を感じるのは、有紀子が「死のうと思ったけど死ななかった」と主人公に語るシーン。有紀子は若い頃、一度自殺を試みている。一度自殺を試みたことがあり、死の淵を彷徨ったことがあるから、その経験が、今回は踏みとどまらせただけだ、とは思わせない何かを感じられるからだ。

4062630869 国境の南、太陽の西 (講談社文庫)
村上 春樹
講談社 1995-10-04

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