なぜ日本は「後戻り」したがるのだろう?-『再帰的近代化 近現代における政治、伝統、美的原理』/ウルリッヒ・ベック、アンソニー・ギデンズ、スコット・ラッシュ

確か中学生の頃、パソコンのプログラミング関連の本で初めて「メタ」と言う概念を知って以来、「メタ」概念の鮮烈さに打たれつつも、何でもキリを無くさせそうなその魔術的な性質に、これはできる限り距離を置いたほうがいいと、一種タブー視してきました。「再帰的近代化」は、ウルリッヒ・ベックによる第1章でその基本的な意味を把握したとき、「メタ」に対するタブー感を思い起こしました。近代化そのものも再帰的に近代化される。行為も行為自身の影響を受け変化する。確かにそれは、資本主義と工業化を推し進めてきた現代社会で起きている状況を説明する論理だと思いましたが、今の僕の理解では、「それは結局、”変わり続けるということだけが不変”と言っているのと同義では?」という疑問を解消するために読み込むことになります。「単純的近代化」が「規則主導」、「再帰的近代化」が「規則改変」という部分を確認したとき以降、頭の中では直近に読んだ『家族のゆくえ』で目撃した課題-

かつての自然産業優位の牧歌的な社会では黙っていても親しい者のあいだに暗黙の了解と意思が疎通していたのに、現在ではこの暗黙の理解は肉親、辺縁の人間の自然な関係でも不可能に近くなっている

しかし、根本的には世界の先進地域や社会、国家におけるハイテク科学産業を歴史的な停滞の役割から歴史的な流れの中に繰り入れる方法を見つける以外に解決は考えられない

この課題を思い起こしながら読むことになりました。この「暗黙の了解と意思の疎通が不可能に近くなっている」事態は、アンソニー・ギデンズが「信頼の喪失」と語る部分に重なります。まだ信頼が損なわれていなかった前近代社会での「伝統」は、再帰的近代化の過程で個々人のレベルに落とし込まれ、個々人によって取捨選択の末に完全にゼロクリアの末作り変えられるのか、それは希望に満ちたことなのか、満ちていようといまいとその先に向かって進んでいくのだ、という風に読み取ったのですが、特に「伝統」という言葉を用いて前近代社会を扱うとき、日本と少なくとも欧米の思想には大きな違いがあるといつも感じます。日本の思想はこういうとき、ほぼ「回帰」を指向するように思います。「そのままでいよう」というような。前に進めることは現状を改悪すること、だから何とかして歩みを留めよう、できることならあの良かった頃に戻ろう、というような。それに対して欧米の思想は不可逆性を見据えた「再帰」-ただ、日本にも、これは不可逆だからどんどん前に進めてしまおう、できることなら循環を実現しようとした大きな実例がある、それは原子力発電と核燃料再利用、それを思うと少し絶望的な気分になります。

スコット・ラッシュの章で、日本の工業体型が取り上げられて驚きつつ、「情報コミュニケーション構造」の概念の登場に、先の課題と連携させながら読みました。ただ、ニーチェ・アドルフが関わる「美的」が以前からうまく理解できておらず、そしてこの「美的」という軸がキーポイントになると感じているので(それはブルデューが引かれることからも感じる)、この辺りを再度入念に考え直してみようと思いました。

4880592366 再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理
ウルリッヒ ベック スコット ラッシュ アンソニー ギデンズ Ulrich Beck
而立書房 1997-07

by G-Tools