「主」なき御宣託 または 転向への反抗: 村上春樹氏の領土問題に対するエッセーを読んで

朝日新聞デジタル 村上春樹さん寄稿 領土巡る熱狂「安酒の酔いに似てる」

作家の村上春樹さん(63)が、東アジアの領土をめぐる問題について、文化交流に影響を及ぼすことを憂慮するエッセーを朝日新聞に寄せた。村上さんは「国境を越えて魂が行き来する道筋」を塞いではならないと書いている。

今は会員ログオンしないと読めないけど(「朝日新聞はケチだ」みたいなコメントをときどき見たけれど、当日記事は無料、バックログは会員ログオン必要、というのはニュースサイトでは普通だと思うし、当日ニュースが無料で見れるのが一般的になったこと自体恵まれたことだと思う)、僕は当日、全文を読むことができました。読んだその時は、「同じような主旨でも、言い方と表現でずいぶん説得力が変わるものだなあ。学ばなければ。」と思ったのですが、しばらくして結構大きな違和感が、やっぱり沸々と湧いてきました。

僕は、尖閣諸島は日本固有の領土だと思っています。その前提で考えているということをまず書いておきます。

村上春樹氏のエッセーは、「これはやはり、日本人固有の”お上精神”の発想だな」と、つくづくと思ったのです。

尖閣諸島は日本の領土で疑いはないと思っているところに、様々な理由をつけて中国の領土だと言い募られている。そして、日本企業がもはやテロの域に達した暴動で、膨大な損害を被っている。中国では日本製品や日本の文化物が店頭から消えていっている。そんな中でも、日本は、特に、文化的な報復をするべきではない、これまでの先達が累々と築いてきた努力を無駄にしてはならない、という趣旨のことがエッセーでは述べられる。

これはこれで確かに至極全うで、恐らく国際的にも認められる振る舞いだとは思うけれど、そういう褒められた立ち居振る舞いだけで問題が解決しないのがまた国際社会で、だから我々日本人は大きな苦しみを感じているのだと思う。北方領土、竹島、尖閣、こういう領土問題は、我々日本人が二度と侵略戦争を起こさないように過去から未来に受け継がれるシンボルとしての「問題」だという考え方を取ることもできるけれど(実際、未来に渡って我々日本人がそういう過ちをもう繰り返さないという保証はどこにもない、今この現代でさえ、何とならばやりかねない思想が見え隠れするくらいだから)、それはまた別の問題、別の文脈なのでここでは置いておきたい。

尊敬に値するような振る舞いを続けて耐え忍ぶことで、いつかそれが報われる日が来る。村上春樹氏のエッセーを、「問題解決」の観点で読むならばこういうことになる。繰り返しになるけれど、国際社会というのは、正しいことを正しいと言い続けるだけでその正論が通るような世界ではない。国際社会どころか、日本の、日常の社会だってそうじゃないか。だから、「問題解決」するためには、何らかのやり方が必要になるのだ。我々の考え方を判ってもらうための、何らかの「やり方」が必要になる。その「やり方」が褒められたものではないからとこちら側は控えていたとしても、相手側はその「やり方」を行使し、それが十分効果的で、そちらのほうが優勢になり、「正しい」ことになることも、充分あり得るのだ。

そんな中でも「正しい振る舞いを取りなさい。そして、時が来るのを待ちなさい」というのは、「お上がすべて見てくれていて、いつか正しい裁きを下してくれる」という、日本人の「お上思想」独特だと思う。同じように「神」を信じている文化圏でも、その対象が(人ではなく)「神」である国の人びとは、現実社会では相互理解のために「相手」に対して必死で言葉を、「やり方」を繰り出す。

だから、我々日本人の「やり方」のためには、ほんとは、その耐えている一般国民の姿に応える、問題を解決する「お上」がいてこそ成り立つものなのだ。相手は、「問題解決」するために、詭弁も使えば「デモ」も使う、ありとあらゆる「やり方」を使ってくる、でも我々は「正しい振る舞い」を強いられる、その我々の苦労に報いてくれる「お上」は政府なのか何なのかは判らないけれど、とにかくそういう存在があって初めて「問題解決」に繋がる「やり方」なのだ。

そして、村上春樹氏のような「大きな声」を持っている人は、その声を、こういうエッセーのような内容を、国内に向けるのではなく、国外に向けて使うべきで、つまり、「お上」にならなければならない立場の人だと思う。僕はまだ調べていないので、村上春樹氏が中国や国際社会に対して、どのようなメッセージを発しているのかは判らない。もし、氏が、我々の「お上」になるようなメッセージを発していないとしたら、それは、「大きな声」を持つ者としての自覚に欠ける、と思う。

そう、戦後の日本というのは、ある意味で、「大きな声」を持つ者が、その「大きな声」を持つ者の自覚を持たず、あるいは敢えて気付かない振る舞いで、そうすることで利得を得続けてきた歴史だったと思う。村上春樹氏のエッセーも、自著は多く東南アジア各国の言語に翻訳され、かつては海賊版が横行したこれらの地域も近年では市場が確立し、緊密な文化交流圏が成立している、と語っているが、自らが「お上」になることなく、我々に忍耐を強いるというのは、自分の経済的基盤の保護を優先していると思うことさえできる。

中国マーケットを無視することは、経済的にはできない。それは重々承知している。けれども、経済的な「痛み」を避けて通ってきたことで、数々の「筋」を滅茶苦茶にしてきてしまったことを、少なくとも僕たち団塊ジュニア世代は知っている。自分たちの親たちが、転向に転向を重ねて「経済」のみの価値観を築き上げてきたことによって。そして僕たちはオウム事件と小泉政権を通過して、大切なもののためには必ず「痛み」が付きまとう、という言説に潜む危険性にも十分自覚的になっている。その上で、僕たちは「正しく」振る舞わなければならないのだ。