『火口のふたり』/白石一文

震災・自然災害、原発、男女の違い、セックス、テーマは括り易く、括り易いと言えど幾重にも折り重なっているのだけど、最も強く迫ってきたのは「この国はいまや東と西で真っ二つに割れてしまったのだ」というものだ。

肌で感じていることだけど、自分達を含めて西日本の人間は、震災被害に関して全くもって鈍感で、被害を実際に受けていないとはいえ、意識は持たないといけないのではないかという僕の問い掛けに、真剣に答えてくれた人はひとりもいなかった。だいたい一様に、「実際に被害を受けていないんだからどっちみちわからない、そんなこと四六時中気に病んで生きていく必要はない」という答えだった。本著で書かれている通り、今や西日本で、スーパーで野菜を買う際に放射能に神経質になる人はいないだろう。何故なら、地元産の、つまり、放射能汚染の心配がほぼない野菜が並んでいるから。東日本にとって、地元産が並ぶと言うことはその正反対のことを意味するのだ。

本著が秀逸なのは、このことを、「今や国民の関心はブラジルワールドカップ。原発は気を引くネタではなくなった」と表現するところ。つまり、本著は東日本大震災から三年後、2014年を舞台に描かれている。この「超近未来」な舞台設定は、今の自分の意識を浮き彫りにする。つまり、「如何に自分の中で、震災が風化しているのか」を、2014年にどうなっているかという描写を通じて、たぶん自分もそうなってしまうだろうと思うところから、今の自分もすでにそれに近づいている、ということに気づいてしまう。

2014年の日本は、明らかに危機に近づいている。近くない将来、首都圏に直下型地震が来ると言われているのだ。2012年の僕たちよりも、2014年のほうがそれに近づいている。そして、福島原発がそのままなら、巨大地震が来た時に国は終わると言っていいのだ。つまり終焉に近づいて行っている。そこに疑問の余地はない。映画「ハルマゲドン」の比じゃないのだ。なのに、特に西側の僕たちは、そんなことなかったことのような生活を送ってしまっている。これは、問題を引き延ばして考えれば、国は終わらずとも国は終わる。自分が死んだとき、自分にとっての国は終わる。だからと言って、日々「明日俺は死ぬかもしれない」と本気で思って行動出来ている人はごく稀。それと同じことを起こしているのが、事故を起こした原発を抱えた今の日本なのだ。

終局をついに知ったとき、主人公の「賢ちゃん」は、「どうせ終わりなのだから、好きなことをやって生きて行こう」と開き直る。それに対して直子は、「こんなになっても、まだそんないい加減な生き方をするの?」と突き刺してくる。この対比に、「これまでは積み上げていくのが倫理観だったが、不確実性が増す中で、明日を予測して生きるより、その都度その都度で生きていくのが倫理観になる」という、俄かには受け入れがたいけれども的確な反論をすることのできないテーマが絡んで、余韻が尽きない。これは『スイート・ヒアアフター』を読んだ際にも思ったけど、西日本に住む僕たちは絶対に読むべきで、ひとつだけ確かなことは、原発問題に対処するためには、facebookなんかで声を上げていても効果がないということだ。

4309021425 火口のふたり
白石 一文
河出書房新社 2012-11-09

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