来年のテーマは「美」。もう決めた。
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定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫) 吉本 隆明 角川書店 2001-09by G-Tools |
思えば僕は造詣のない芸術の中でもとりわけ美術は全然解せなくて、素晴らしい絵画を見て「これは凄い」と感動するなど、そのくらいのことは出来るけれど、著名な作者とか歴史とかその作風や背景や意図や、といったことに全く疎いと言っていい。なぜ疎いかというと細やかな違いが判らないからで、大雑把に見てはっきり特徴のあるようなものは認識できるけれど、そうでないものは識別できなくて鑑賞できない。
そんな僕なので、デジカメもケータイのカメラ機能で十分とずっと思ってきた。ロードバイクで遠出する際、写真を撮りやすいようにとデジタル一眼を買ったけれど、それもどちらかというと「すぐ撮れる」という点を重視した買い物だった。
ところが、そんな僕が、ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真の違いに気づき始めた。奈良に住んでいるのでサイクリングの行先も神社仏閣が勢い多いんだけど、神社は取り分け違いがはっきり判る。社に漂う気配の映り具合が違うのだ。
このことに気付き始めたときに読んだのが、『プラスチックの木で何が悪いのか』だった。本物の木と見分けが全くつかない精巧なプラスチックの木があったとしたら、街路樹をプラスチックの木で代用して何が悪いのか。直感的には悪いと言うけれども言葉にするのが難しい命題。ケータイで撮った写真とデジタル一眼で撮った写真も、解像度の差としてその命題が現れる。つまり、いくらデジタル一眼は社に漂う気配が映し出せているといっても、あくまで千数百万画素のレベルでの話であって、一億画素があればそちらにはより克明に映し出され、それでも肉眼に映る気配とは似て非なるもの。では画素数を問わない絵画なら話はどうなるのか。
ニーチェが最後にたどり着いた<価値基準>は「美」だという。僕は何かが美しくて何かが美しくない、という判断にはあまり興味が湧かなかったのだけど、ここにきて「美」に対する興味が大きくなっている。何が美しくて何が美しくない、という話は、相対的で主観的なものとして、相互認証的に「放置」しておくのが最もよい、という消極的な考え方だったところが、「何が「美」なのか」ということと、「「美」とは何か」ということを、突き詰めて考えてみたくなった。この、「美」をうまく言えないところに何かがある。だから、『言語にとって美とはなにか』の再読から始めようと思う。
来年は、僕にとって「美」を深く考えることで、そういう「絶対的な」価値基準から自由に物事を考えられるようになっている自分の思考を、一歩深めることができると思う。