会社員の品格

ターゲット(ノルマ)達成のためなら、金のためなら、何をやってもいいのか?「それは道義が許さない」と反論するのなら、オマエは道義の為に死ねるというのか?-という極論の応酬。

僕は、結局のところ、この騒動というのは、「目に見えるものしか、論拠として認めない」というスタンスが根源だと思う。人間の活動は、目に見えるものだけで説明することは出来ないし、そもそも目に見えるものはすべて集めてこれていると思うことが傲慢なのだ。一応、その傲慢さは認識してかおらずか、「一面からの仮説」という前提がつけられることも多いが、その「一面からの仮設」を検証する過程で、何が失われるかを検証する試みはこれまで一度も見たことがない。

取引(先)も生殺与奪が繰り返されるのだから、次々と新しい会社が生まれ、ということはどんどんと投資が行われるマーケットにフォーカスし、投資が終わった会社とはオサラバする、というサイクルが最も効率的であることは誰の眼にも明らかだけど、ある一定の幅を持った時間軸の中で、そういった活動をしている団体が、多くの信頼を得ることができるかと言えば、オサラバされた会社の集合から三行半を突きつけられているのが現実だろう。長い時間の間に何が起きるのか、それを予め認識した振る舞いの暗黙知が「品格」である。

節操がなくても、羽振りを見せびらかしても、それで良いと思うならその生き方を極めればそれでよいと思う。その姿を見る、様々な人々の様々なまなざしに無自覚でいられるうちは。私はそのような道は選ばない。