「言動一致」など造作ないことだ、「心言一致」の難さに較べれば

 「有言実行」が持てはやされ、もはやもともとこの言葉がこの形の四字熟語として昔から存在しているようになったのは何時頃のことだろう。世の中は生活とビジネスがニアリーどころかイコールで結ばれるようになり、晩御飯のメニューにまで説明責任が求められ、グローバル化の掛け声のもと、「言わなきゃわからない」が不滅の真理のように崇められるようになった。

 僕は子どもの頃から信じている。言わなきゃわからないヤツは、言ってもわからないのだ。そして、それなら言わないほうがマシなのだ。自分の言ったことに責任を持ち、その通りに行動することなんて、訳もないことだ。自分が思ったことを、思った通りに伝える言葉を紡ぎだすことの途方もない難しさに較べれば。

 自分が思ったことを、思った通りに伝える言葉を見つけることを放棄した人たちを今までに夥しい数見てきた。こういうときにはこういうふうに思うものです、という習俗的習慣や、今の時代はこういうふうに反応するのが当然です、という時代的迎合に、そしてそれは取りも直さず「言葉」から出来ている、そういう「言」を自分の「心」に取り込んで、それを「心」としている人たちを。

 自分の思ったことを、思った通りに伝えようと必死になるとき、そこで直面するのは嘲笑と蔑笑だった。なぜそんなことに一生懸命になるのかと笑われ、必死になればなるほど伝わらないことで笑われた。

 猫も杓子もプレゼンテーションに明け暮れ、「どう話すか」「どう表現するか」ばかりが追及されるが、もし本当に「言わなきゃわからない」と思っているなら、必要なのは「どう話すか」ではなく「どう聞くか」だ。聞く力をどう養うか。相手が話していることの本意を、言葉の枝葉末節に捉われることなく掴み取ろうとする意志。それこそが、「言わなきゃわからない」状況で必要とされる。今のプレゼンテーションばやりは、コミュニケーションの本質を忘れさせている。コミュニケーションは双方向だ。そして、大事なのは「聞く力」だ。

 芸術家の神髄は、表現力にあるのではなくて、これまでの芸術が歩んできた歴史を知っていて、その文脈の中で各芸術家が何を言おうとしているかを読み取れることにある。だからこそ、自分の表現がどのように伝わるかを考えて、自分の思いを表現できるのだ。自分の言葉の範疇でしか、相手の言葉を理解できないような、そんな「有言実行」は要らない。

言葉ひとつ足りないくらいで
全部諦めてしまうのか