ところが日本人の社会って依然として情緒だけで動いちゃうね
鮎川信夫氏のこの一言だけで十分なのかも。
この一言は、日本での言論というのは、言論を通じてどこかにたどり着こう、相手から発せられた意見や反論なども取り込んでさらに先に行こう、という態度ではなくて、あくまで自分の立場からしか物を言わない、自分の立場に固執し、自分の立場を守る目的での言葉しか言わない、だから情緒だけで物を言ったり動いたりしかできないよね、という文脈で述べられたもので、ほんとうにその通りだなあを、わが身を振り返る訳です。
『「反核」異論』については、「反核」そのものに対して否定を投げかけるのではなく、「反核」に至る過程-つまり、当時のソ連がポーランド「連帯」弾圧を覆い隠すために作為的に巻き起こしたものだということを見抜けずその作為に乗っかってしまうことへの批判と、「反核」を謳うのであればアメリカだけでなくソ連も断じなければ筋が通らないではないかという批判、この二つが主軸。ここで思うのは、『「反核」異論』という見出しだけで、「けしからん」というリアクションを返すような、言論的に薄っぺらく弱弱しい状況に現在もなっているんじゃないか、ということ。自分と異なる意見を述べそうな人が出てきたときに、「なぜ、そういうことを言うのか?」という想像力と、その立場を取り込んでいこうとする足腰が、どんどん弱ってきている気がする。
あと、本筋とはちょっとそれますが、
大部分の労働者は、労働者としてのじぶんというものよりも、消費社会の中で背広をきて遊びに行くときのじぶんを、じぶんと思いたい率のほうが多くなってきているのではないか
というところ、こう書かれた文章を読むと「当たり前でしょ」と思うけれど、「当たり前でしょ」と思うくらい、適格に書けているところが凄いなあと。そして、それが消費なのか、消費ではなくとも「労働」に費やしているのではない時間帯なのかの違いはあると思うけれども、とにかくそういうときのじぶんを「じぶん」と思いたい率は本著か書かれた時代よりも現代の方が更に高まっていると思われるのに、近年とかく「仕事、仕事」と言われるのは、高度消費社会においてはそれはやはり「退行」なのではないか、と本著を読んでおもった。これは『暇と退屈の倫理学』を読んだ時にも思って整理仕切れなかった。高度消費社会はグラフの頂点で、ここから緩やかに生産社会に戻っていって、その結果、「じぶん」らしい「仕事」をする社会に、復帰していくのだろうか?それは「退行」ではないのだろうか?
「反核」異論 (1983年) 吉本 隆明 深夜叢書社 1983-02by G-Tools |