「そんなこと言ったっけな?」

 志村けんがコントで手にしていた新聞が「原発さえなければ」と書かれた記事だった、というのが話題になっているのをfacebookで見ました。原発反対の方々に好意的に紹介され、「さすが志村さん」と言った論調がほとんどですが、僕はこれに若干違和感を持っています。

 僕はfacebookにアップされていた静止画像を見ただけで、コント自体を見てませんしyoutubeでも一度検索しただけだとなさそうだったので、推測で言うしかないのですが、まず、その新聞を選び、「原発さえなければ」と書いた面がテレビに映るように、意図的にしたのかどうかが不明ということと、意図的だとして、それが志村けんの意図なのか、その他の関係者の意図なのかが不明ということです。

 「原発については物議を醸すのが明白なのに、敢えてテレビに映る様にしている時点で、それは意図的なものと言っていい」という推測もありますが、そういう決め付けられ方をされた場合、志村けんサイド(および関係者サイド)は、「いえ、あれは偶然あのページだっただけです。何の意図もありませんでした。ごめんなさい。」と申し開くこともできる状況にある訳です。

 そういう、「言い逃れ」できる状態にある”発信”を、無闇に持ち上げる風潮というのはどうなのだろうと思います。コントを一通り見れば、あれは「反原発」を暗にメッセージしようとした意図的な新聞の見せ方だったと判るような行動があるのかも知れません(例えば、コントの流れとは無関係に妙に新聞をかざす、とか)が、そういったことのない状況で、メッセージをくみ取るというのは危険でさえあると思います。昨年末の紅白歌合戦で、斉藤和義が「NO NUKE」というギターストラップでステージに立ったのとは、訳が違うのです。
 文学は、言葉として明記されていない部分のメッセージを読み取っていくものですが、言葉として書かずにメッセージを伝える際の作法のようなものはあって、「これはこのように読めるね」という積み重ねで成り立つもです。文学の読み方というものの視点からこの志村けんのコントの取り上げられ方を見ると、違和感を禁じ得ないのです。

 仮に原発推進派の有力者から志村けん(および関係者)が「けしからん」と詰め寄られたときに、「いえ、あれは偶然です。何の意図もありません。不用意でした。私は原発推進派です」と詫びを入れられるようなやり方で、「原発さえなければ」というメッセージを発信していることを、本来であれば、原発反対派の人は批判してしかるべきだと思います。原発反対というのは、そんな甘いもんじゃないぞ、と。原発反対という主張をすることは、そんな腰砕けな、腑抜けたやり方でやっていいもんじゃないんだぞ、と。
何かモノを言う時に、安全地帯からモノを言うというのは、絶対的に間違っていると思います。そういうモノの言い方を誉めそやすスタンスは、改めなければいけないと思います。特にそれが著名な人であったり、コミュニティの大小を問わず有名人であったり影響力を持っていたりする人であれば、なおさらです。