『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』/村上春樹

何と言っても最大の特徴は「短さ」だと思います。

最近、海外文学の翻訳を読んでいてつくづく思うのは、「長い」ということ。長い小説が嫌いな訳ではないけれど、時間が掛かるのです。電子書籍のいちばん有難いのは「可搬性」で、持ち物の多い通勤時、重くてかさばる本を持ち歩かなくても、電子書籍ならいつでも読めるというのがいいんだけど、それはさておき、「一定の塊の時間でもって物語を通読する」ことが難しい現代の現状をきちんと把握してなのか、本作はとにかく短いです。そして、読み進めるにあたっての勘所を丁寧に解説しながら物語を展開してくれます。基本的な線では読み間違えようがないくらい、丁寧に展開してくれます。

個人的に気になっているのは、「沙羅」が何色なのか?ということ。作中でもきちんと語られる通り、主人公である多崎つくる以外の登場人物は、すべて名前に色が含まれる。親友四人だけでなく、灰田も緑川も。でも、つくるが今現在の時間で向き合っている女性である沙羅は、直接的には色がついていない。敢えてこじつけて沙羅双樹で引っ張ってみれば白色か。または白色と黄色?しかし白と言えばつくるが惹かれていて、五人のバランスを壊す引き金となって、なおかつ殺されてしまったシロと重なってしまう。つくるが、つまりは人が惹かれるのはシロだということなのか?そうすると三日後、沙羅はどんな答えを用意するのだろうか?最後に救いがあるようで、また繰り返されるのだろうか?

もうひとつ、「そしてその悪夢は一九九五年の春に東京で実際に起こったことなのだ」。それが何故起こったのかと言えば、「我々が暮らしている社会がどの程度不幸であるのか、あるいは不幸ではないのか、人それぞれに判断すればいいことだ」。なぜ、僕たちは「自分達でそれぞれに」判断できないのだろう。誰かの判断を奉ってしまうのだろう。ナントカ系とかいうレッテルを、好き好んで自分に張り付けて、誰かの判断を受け入れてしまうのだろう。そうして、自分の判断を誰かに押し付けてしまうのだろう。自分がどんな色であるか、誰かがどんな色であるかは、それぞれ自分自身で決めればいいことだ。同じ色同士で集まるところには、「一九九五年の春に東京で実際に起こった」悪夢に通じる何かが潜んでいることに、もっと鋭敏にならないといけない。繋がりを重んじる前に、それが「繋がらない」を生み出していることや、まずは己が自分を判断できないのならそれだけで害悪であることに自覚的にならなければいけない。

4163821104 色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
村上 春樹
文藝春秋 2013-04-12

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