ゲームと複雑な感情

携帯電話向けゲームの先駆者、グリーが急失速した。スマートフォン(スマホ)時代についていけず、業績は悪化。一時は任天堂をおびやかすほどの栄華を誇りながら、その天下はわずか3年で終わった。グリーにとって生き残りをかけたサバイバルゲームが始まっている。
グリーの「三年天下」、熾烈なゲーム生存競争  日本経済新聞Web刊 2013/9/2 7:00

 私は就職活動時、第一希望がゲーム業界で、当時で言うところの「ゲームデザイナー」になりたいと準備をした人間で、心からゲームを愛していたので、グリーやディー・エヌ・エーを苦々しく思っていた。小説や漫画や映画と同じように、芸術的要素も持ちうるひとつの娯楽として成り立とうとしていたゲームを、プレイヤーの知恵も工夫も技巧も何も関係ないただの「ボタン押し」に成り下げた主犯格として。ゲームをその程度に矮小化しただけならいざ知らず、「カネを出せば強くなる」式の仕組を持ち込み、おまけにそれをゲームのおもしろさを左右する要素よりもゲームの収益源としての役割を優先させたからだ。言わずと知れた「コンプガチャ」だ。おもしろいゲームがまだまだ世の中にはあるなかで、猫も杓子もゲームと言えばグリーかディー・エヌ・エーかでやるもんだという認識に染まっていくのを、本当に悲しい思いで見ていた。

 しかし一方で、彼らも判っていたように、私たちもグリーやディー・エヌ・エーのモデルが未来永劫に続くとは思っていなかった。なぜならグリーやディー・エヌ・エーのモデルはプラットフォームビジネスだったから。世間のビジネスモデル指南書では「プラットフォームを握る者が世界を制す」とよく書かれていて、それは確かに正しいのだけど、プラットフォームをプラットフォームとして維持し続けることは並大抵のことではない。スマートフォンがシェアを拡大して、アプリというものが各スマートフォンのアプリ購入サイトから購入するのが当たり前になったとき、グリーやディー・エヌ・エーに存在価値はあるだろうか?

 そして満を持したかのように届いたニュースが、「セガなどゲームソフト15社がスマホ向けゲームのユーザー開拓で連携する」というものだった。もちろんグリー、ディー・エヌ・エー外し。

 もちろん、「いい気味だ」という気持ちは禁じ得ない。心から愛するゲームを、ただの「商品」として扱った罰だ。利殖の道具として。ゲームという様式の中でのおもしろさを追求したのではなく、条件反射と禁断症状を利用して釘づけにすることを追求した彼らに「ざまあみろ」と言いたい気持ちはもちろんある。しかしながら、グリーの田中良和氏は如才ないし、経営スキルは高いものを持たれていると思うし、何よりもともとSNSを運営していたところに「商材」としてゲームを扱ったように、扱うものに強いこだわりを持つのではなく、ビジネスの対象として扱うことのできるスキルを持っているので、会社としてのグリーは必ず復活してくると思う。

 なぜ、グリーやディー・エヌ・エーに対して、「ざまあみろ」と散々罵倒すればいい、という気持ちになりきれないのだろう?それは、グリーやディー・エヌ・エーを「利用」してきた外野のほうが、よほど罪深いのではないか、と思うからだ。投資家についてはそうは思わない。うまくリターンを得て勝ち抜けた人はそれだけの才覚があったのだと思うし、そもそもゲーム会社を投資の対象にすること自体に、ゲーム業界を志していた身としては違和感を感じざるを得ない。それが、ゲーム業界が未熟で不安定だという意味ではない。だいたいの世間の人は、ゲームとは何か、ゲーム業界とは何かなんて、ちゃんと理解しようとはしていないと思うからだ。

 ではグリーやディー・エヌ・エーを利用してきた「外野」とは誰か?それは他ならぬ我々IT業界だと思う。言うまでもなく、ゲーム業界は大量のサーバ、ストレージ、高速のネットワーク等々、非常に高性能なIT機器やシステムを必要とする。ある意味で、テクノロジーの最先端業界なのだ。我々IT業界も他の産業界と違わず、最新テクノロジーはどこかで「実験」し、その知見を以て安定化させて一般化し賞品として普及させなければならない。他の業界がどうなのかはよくわからないけれど、我々IT業界ではこの「実験」先は、パブリック・セクター(大学か、公共投資が行われる事業-たとえば「京」)かゲーム業界だ。こういう「実験」が行われるところでは、「先行投資」が行われているので、リターンに対する厳しい目よりは、「絶対価」の高低だけで採用される節がある。かくして我々は、自分たちのノウハウを蓄えるための「実験場」として、最新テクノロジーをゲーム業界に売りつける。

 企業活動においてはどうしても金で時間を買わなければならないフェーズがあるのは承知していて、だからこそ先行投資の必要があることも理解している。けれど、グリーが本当に記事で書かれているほど破綻しているのであれば、そこまで倫理を失わせたのは無暗に車輪を回させた我々にも責任の一端があると言えるのではないか。結局、その果実を手にしているのはやはりクレバーにその場を乗り切っているIT企業だけなのだ。それに最も憤る。ソニーのセルのときもそうだった。