『楽園への道』/マリオ・バルガス=リョサ

4309709427 楽園への道 (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-2)
マリオ・バルガス=リョサ 田村さと子
河出書房新社  2008-01-10

by G-Tools

ポール・ゴーギャンと、その祖母で、女性解放と労働者の権利獲得のための活動に一生を捧げたフローラ・トリスタン。実在の二人の人物を用いた物語は、奇数章がフローラ、偶数章がゴーギャンの物語として交互に語られる。村上春樹の作品で慣れ親しんだこの構成は、「フローベールが交響曲の同時性や全体性を表現するために用いた方法」であり、「二が一に収斂していくのを回避しながら重ね合わせる手法」であること、また本作は「直接話法から伝達動詞のない話法への転換が用いられている」が、これは「騎士道小説の語りの手法を取り入れたもの」ということを、解説で学んだ。

ヨーロッパ的なるもの、偽善、性、読み込みたいよく知ったテーマが詰め込まれているけれど、物語の最終版、それらを押しのけるように衝撃的に登場した言葉があった。「日本」だ。

洗練された日出づる国では、人々は一年のうち九カ月を農業に従事し、残りの三カ月を芸術家として生きるという。日本人とはなんとまれなる民族だろうか。彼らのあいだでは、西洋芸術を退廃に追いやった芸術家とそれ以外の人々のあいだの悲劇的な隔たりは生じなかった。

戦後、日本人として日本の教育を受けてきた身にとっては、とても表面的で、とても要約された日本観に見えてしまう。19世紀と言えば日本はまだ徳川の世で、「日本の版画家たちよりこれをうまくやったものはいなかった」と書かれている通り、ゴーギャンが影響を受けたと言われている浮世絵師達が活躍した時代。僕の頭にはこれまた表面的で短絡的に「士農工商」という身分制度が思い出され、年貢によって貧困に喘ぐ「被搾取者」農家が、芸術家として生きるなんて考えられもしない。それでも、「ヨーロッパ的なるもの」を考えるとき、「芸術家とそれ以外の人々のあいだの悲劇的な隔たりは生じなかった」というのは頭に入れておかないといけないのかも知れない、と思った。なぜかと言うと、戦後から現代の間に、正にそれが起き、そしてそれが現代社会として当然の姿と思っている僕たちのような意識が存在するから。

芸術とは自然を真似るのではなく、技術を習得し、現実の世界とは異なる世界を創ることだった。

自分にとって「仕事」とは生きるためのものであり、生きることにとって芸術は必須のものではなく、芸術は自分の仕事の領域には含まれないし取り扱うこともできない、と考えてきた僕にとって、この一文は、-特に「技術(ワザ)を取得し、」の下り-新しいエリアへのきっかけになる力強い一文だった。