「模様より模様を造るべからず」 / 富本憲吉

先日、『行動主義 レム・コールハースドキュメント』を読み終え、その過程で興味が伸びていった先のひとつが「民藝運動」だった。

「民藝運動」という言葉は、柳宗悦が、「民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界。その価値を人々に紹介しようと、「民藝」という言葉を作った」ところに始まる。「道具は使われてナンボ」という感覚の僕にとっては、プラグマティズムにも通ずると思える民藝運動は全面的に受け入れてよい運動、のはずなのに、富本憲吉は一旦は民藝運動に参加しながら、その後離脱している。

ここが気になる。なぜ、富本憲吉は、民藝運動から離脱したのか?第一回の人間国宝の認定者のひとりである富本憲吉は、陶芸を、日用品ではなく芸術品としてのみ認めたということなのか?

ところがそうではなく、富本憲吉は「日常のうつわ」の作陶に非常な関心を寄せ、実際に「信楽、益子、瀬戸、九谷、清水(きよみず)などの名高い窯業地で、ご当地の素地に独自の模様を描いて、実用陶磁器づくりに取り組んだ」。富本憲吉はこんな言葉を残している。「私は今年から出来得る限り安価な何人の手にも日常の生活に使用出来る工芸品をこさえたいと思い出しました。このことは私に取って随分重大なことで、今後の私の進むべき道に非常な関係があることと思います」。

僕にはこの同郷の陶芸家の生涯に、思想に、僕が今追い求めている仕事の、生活の、スタンスの重要なエッセンスが見いだせるに違いないと思っている。芸術性と実用性がトレードオフするかのような、指向を追求すれば追求するほどマーケットは-マーケットという言葉に語弊があるのであれば「理解者」は-狭まっていきそれを選ばざるを得ないというような、そんな、いかんともし難いことと思い込んでいた理をブレイクスルーするエッセンスが見いだせるに違いないと思っている。

不安の影は既に見て取れる。この道は、孤独で孤高でなければ進めない道なのだ。そうであるが故が、富本憲吉が民藝運動を離脱することになった理由のひとつであると思う。社会において一つのムーブメントになることは、自分が正しいと信じたことを社会に伝播するために必要なことであり、一つのムーブメントにするためには、ある種の「理念の単純化」と「形式化」が欠かせない。これは、『歴史のなかに見る親鸞』を読んだときにも痛感したことだ。しかしそれは、自分が信じた理念を歪め、ともすれば骨抜きにする。富本憲吉は、その道を選ばなかったということだろうか?「模様より模様を造るべからず」-模様は自然の注意深い観察から生み出すべきであって、模様の安易な模倣は許さないと宣言したこの言葉は、それ以上の深いメッセージを発してるように感じる。

富本憲吉を追求する。