「磯江毅-グスタボ・イソエ」特別展行ってきました

奈良県立美術館で開催されている「磯江毅」特別展に行ってきました。

現代は「写実」を必要としていない。それは現代を特徴づける、ITの世界を見るとよくわかる。ITは、膨大なデータを扱えると言いながら、以下にそれをサマリして見せるかに心血を注ぎ、そして求められてきた。何を表しているのか一見わからないデータ群、人間が自らの頭脳で解析するには多大過ぎるデータ群、そう言ったものの中から、何かを「余計」だと判断し、何かと何かを「同類」と判断しながら、「意味のある」データに置き換えて要約して提示する。現代は、膨大な時間を一瞬に変えてくれることをひたすら希求するeraだ。曰く、5分で読めるビジネス本、一週間で英語が話せる、四半期で業績倍増・・・。昨今の流行はGoogleに端を発する「ビッグデータ」だが、これもビッグデータをビッグデータのまま扱うのではない。mapして、reduceするのだ。

磯江毅の絵画は、数か月前の日経新聞の朝刊で観た。ちょうど、先行した展示会の紹介だった。確か、「盆の上のあざみとラディッシュ」が掲載されてたと思う。ほんとに衝撃だった。写真にしか見えない。

それで、調べてみると奈良でも11月に開催されることを知り、この日を楽しみにしていた。展示は展示約80点、デッサン100点の抱負な展示で、素人の僕にもとても楽しめた。写真にしか見えないというのはとてもチープな感想だけど、ほんとに凄い。静物画が比較的多くて、人物画が次、風景画は少なかったけど、僕は静物画、それも明るい色合いの静物画が凄く好みだった。はっきり見えているところで、よりはっきり見ようとしているような感覚。よりはっきり見せようとしているような感覚。スペインのアカデミアでの指導は、「より似ているか似ていないか」という明瞭なものだったという解説が印象的。

僕は「写実」というのが好きだ。要約は好きではない。要約は、対象をよく見ているからこそ要約できるのだ、という主張は、なんとなく思い上がりに聞こえる。どれだけよく見ようとしても、見られない点は必ずあるのだから。だからこそ、僕は対象をよく見ようとする。対象をよく見るということは、対象をよく知ろうとすることで、よく知るということは、限りなく対象そのものになろうとすることだと思う。表現は、自分を表現するのではなく、対象を表現する。しかし、自分を対象と同一化する働きは危険を伴う。その危険に敏感になれたら、ほんとうに「写実」することができるのではないかと思う。今、僕に必要なのは「写実」の思想だ。