デザインが教育を殺す - 『震災のためにデザインは何が可能か』

4757142196 震災のためにデザインは何が可能か
hakuhodo+design studio-L
エヌティティ出版 2009-05-29

by G-Tools

全体を通してまず印象に残っているのは、山崎亮氏の章:「デザインが社会のためにできること」。この章の冒頭、山崎氏は”スタルクの「あの発言」をどう捉えるか”と題して、

商業的なデザインとは、極言すれば「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」です。

次のデザインを手に入れたくなるのが心情ですが、新しいデザインが登場するたびに商品を買い換え続けるわけにもいきません。結局、幸せは期間限定でしかなかったということになります。

と書いているにも関わらず、それを受ける次節以降は、その「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」という問題に対する解は何も書かれない。書かれずに、「デザイナー」の生き方についての指南が書かれるだけ。この本の大きなコンテキストは、デザイナーの生き方ではないはず。『震災のためにデザインは何が可能か』であって、デザイナーは社会的デザインという生き方があるよ、ということを伝える本ではないはずだ。それに、もしそれを伝えるのなら、社会的デザインに携わっても、「今日新しいものを、明日古くするための」商業的なデザインを携わるのと同じような「商業的な」成功ができる道を示すなり作るなりするべきではないかなと思う。商業的な成功を我慢して社会的デザインに携わりなさいというのでは、道を拓いたことにならないのではないか。

 ついでに繰り返して言うと、僕は、仮にそれが「今日新しいものを、明日古くするためのデザイン」から脱却していて、「新しい古いから解き放たれた永遠のデザイン」だとしても、その分の金額が上積みされるようであれば意味がないと思っている。どちらにしても、この現代で永遠に使い続けることなどあり得ないのだ。なのに、一生モノを一生モノの価格で販売するほうが、思想洗脳した詐欺行為に近いと思っている。

もう一つは、山崎氏の章にも

そのとき、デザインの力が有効に働きます。デザインが持つ「正しさ」や「楽しさ」や「美しさ」が、課題の共有に役立ちます。多くの人たちが共感できるデザインであることが、社会の課題を解決する力を醸成し始めるのです。

と言った文章で表現されるように、デザインが社会の課題を解決する力になることが繰り返し語られていて、これは本著の性格上当然ではあるけれど、ともすれば「デザインがなければ社会の課題を解決する力が生まれない」とまで言っているように聞こえてしまう。

本来、社会の課題を解決しようという意志は、社会に生きる中で感じ取れるものだし、感じ取れなければならないもので、それを感じ取る能力というのは、自律的で能動的で、家庭と教育によって個人に醸成されていくものだと思う。そういう「個人」が多数の社会が前提で、デザインがそれを手助けする、という思想には、どうしても聞こえないような感じがする。それは、もはや「デザインがなければ、現代人は社会の課題を解決しようという気にすらならない」と言っているようで、少し高慢な感じがするし、その姿勢というのは、教育の重要性というのを根本的に忘れてはいないか、と思ってしまう。
自分たちは十分に教育を受け、もしくは独学で学び、十分に知的でソフィスティケートされている、そういう自分達が、デザインというものを使って、やる気のない現代人にやる気を起こさせるような仕掛けをいっちょ作ってやろう、言い方は悪いが、そういう、あの僕たちが忌み嫌う「啓蒙主義」に通底するところがあるように少し感じた。