『読解レヴィ=ストロース』/出口顯

4787210475 読解レヴィ=ストロース
出口 顯
青弓社 2011-06-22

by G-Tools

僕にとってレヴィ=ストロースを読むとは、「謙虚」を学ぶことだった。それは、レヴィ=ストロースが、『野生の思考』で、未開人の生活・慣習は西欧と同じく高度なものであり、啓蒙主義は西欧中心主義であり転覆されるべきものである、という読みからではなく、レヴィ=ストロースを読むと、啓蒙主義の否定そのものですら、実は序列をつけんとする高慢な態度ではないのか、という、徹底した相対性を身に付けることができたからである。それは、自分がどうしても経験できないことに対して、どのように言葉を紡げばよいのかの姿勢の基盤となっている。コードが存在する以上、全体も存在する。ルールを否定しようという試みは、ルールをゼロにすることはできない。なぜならルールあっての反ルールであり超ルールであり脱ルールなのだから。僕にとってはこれが「構造主義」ということだった。

だから、レヴィ=ストロースをして「大声」を出そうとするスタンスは、必然的に失敗するものだと思っている。もともと声が大きい者がレヴィ=ストロースを語るとき、そこにはある種の欺瞞が生じる。レヴィ=ストロースは、必ず、その立場を相対化し、逆転し、反転させるからだ。例えば僕たちは日本に生まれ日本で暮らしながら、イランの行方を考えなければならない。イラン国民がどのような困難に直面しているのか、日本で暮らすことができながら考えなければならない。また同じ日本でも、東日本の困難を考えなければならない。共時的に考えなければならない。と同時に、高度経済成長期の恩恵を十二分に受けながら、その恩恵に顧みることなく現在の日本の問題を先送りするだけで解決しようとしない世代に対して、モノを言わなければいけないという二重の困難を考えなければならない。自分たちの置かれた立場が恵まれたものだという物言いは、反発を招いてほぼ必ず失敗する。そういう通時的な考えを持たなければならない。レヴィ=ストロースは、それぞれの立場を相対化し、逆転し、反転して考えることを強いる。だから、「声の大きい」ものが「声の大きい」まま語るのは、ある種の欺瞞だと僕は思う。

誰かに縋って生きていくことを、僕の「レヴィ=ストロース」は拒否する。「声の大きい」誰かの力を賢く利用して生きていくことを、僕の「レヴィ=ストロース」は拒否する。レヴィ=ストロースは、僕に「強くなれ」といつまでも問い続けるのだ。時に、言い辛い立場での物言いも、しっかり言わなければならない。その言いにくさというのは、時に自分が優れていると言うことでさえある。そしてそれは、「謙虚である」ということなのだ。