独走会 200919 ビワイチ 172.19km/541m elev.gain

”この感情のアップダウンこそ 生きていく原動力"
("マイニューラブ"/B'z)

お釈迦様は不苦不楽の中道を説いたと言う。六根から生じるエネルギーを快にも不快にも振れさせず波の立たない状態を維持するのがよいと説いたと言う。常にクールであれというその言わんとするところはもちろんよく分かる。だけれどもそれが人間的なのかという疑問はいくら沈めても何度も湧き上がる。

そもそもお釈迦様の言う中道は、人間的思考を止める術を述べているのだから。快にも不快に振れないというのは一見進むべき方向に見えるけれども、仮にそれが「不快」だとして、不快だとしないために、あるいは不快であることによるマイナスの作用を避けるために、快にも不快にも振れない術が必要だというのだとしたら、それ自体が二元論の限界でもあるように思う。

大切な誰かを亡くすことを、人はいつか必ず亡くなるものだと言ってクールでいられるように修練することが果たして本当に人間的な高みだろうか?思い通りにならない悔しさや苛立ち、外部を傷つけようとする妬み、そういったものは捨象していくべき不快で間違いないが、精一杯の努力をしても届かなかった悲しみやまたいつかこの地を訪れたいと思えるような喜び、そういった快・不快の感情は自己をドライブするエネルギーであり、先の快・不快とこの快・不快は区別するべきではないか。マキノ追坂峠を越えた後、なんでもない平坦路で20km/hくらいしか出せなくなり「焦らなくていい、回せるペースで回せばいい」と自分を落ち着かせたとき、近江八幡あたりでまさかのルートロストして30分くらいかなり塞いだ気分で走り続けてさざなみ街道に復帰した瞬間目に飛び込んだ「瀬田9km」の文字とびわ湖大津プリンスホテルでゴールが近いとわかり一気に気力が戻ってきたとき、一周する9時間という時間中常に巡っていたのは、このことだった。

暗いニュースを耳にし、ずっと不安定に感じつつ日々だましだましやっている自分の神経のささくれが否応なしに気に止まる。もし安定が安定でなくなったら。それは誰の身にも、だから自分の身にもあることで、家族はそうなっても一緒に頑張ろうと常々言ってはくれるが、シリアスさ加減を共有できていないのかも知れない、とよくわからなくなってしまったことはある、けれども今は、今のこの暮らしだから家族は自分を慕ってくれているのではないということは誤解や奢りではなく受け止めることができる、それは自分を自分の視点と「あなた」の視点から見ることを長い間磨き続けてきたからこそできるようになったことだと思う。自分がいったい今どこにいて何を見ているのか、そんな自分を「あなた」はどう見るのか、そしてその視線を意識することは周囲からの見え方だけを意識しているのではないということ、つまりはこれも「二辺を避ける」ことに近いのだろうと思う。

以下、恒例の箇条書き:

  • 今まで走ったことのあるルートでの苦痛を思い出して怯む気持ちがあったけれど、先日の伊勢行きと同じで全行程楽しかった。そして9時間でも、平坦なら苦痛じゃなく走り続けられると自信になった。
  • 好調のいちばんの要因はタイヤか?ローラーをGrowtac M1.1に変えて、タイヤがローラー専用タイヤでなくていいということだったので、本番用に履いていたタイヤをローラー用ホイールに履かせ、本番用に新品を履かせて最初の実走だった。確かに今まで履いていたタイヤはだいぶ減ってたので、これからはよく見るようにしよう。
  • バーテープが擦り切れてきた。
  • テールライト。充電がすぐ切れるのか、日にちが持たないのか。一度つけっぱなしで試す。とても気に入っているテールライトなので、実用できなくなってないといいなあ…(もう販売していないみたいなので)
  • Garmin EdgeがLow batteryワーニング出したけど、まだ全然持った様子。
  • 後半でも28km/h~30km/hで回せたのはきっとトレーニングの成果。
  • 一方で、早い時点から心拍数が高くなった。足は辛くないけど心臓がきつい感じ。心肺に負担をかける系のトレーニングが足りないか?
  • 寒かった。そろそろアンダーは最低限必要。
  • 午後に差し掛かったあたり、目を上に向けられない状態が襲ってきた。痛いというのか気持ち悪いというのか。キャップのツバを下ろしてサンバイズして少しましになり、そのうち症状は改善したけれど、あれはちょっと気をつけたほうがいいなと思う。ましになったところで長めの休憩を入れたので回復したのだと思う。