独走会 230817 くろんど池

静寂の必須性。

数年前から、予定日の2,3日前までは挑戦心が湧いているのに、日が近づくにつれ、挑戦心よりも不安心が勝ることが増えたが最近はそれがいよいよ酷くなった。実際に走ってみればそこまで辛くはないのだけど、前日に思い浮かべると近所の坂でさえ、苦しいイメージで浮かんでくる。そして、当日の朝は首尾よく予定通り早く起きれたとしてもどうしても気乗りがしなくなる。

それでも、当初予定していた距離より短い距離で済まそうと自分をだましだまし走り出す。なかなか走れていないから体力に不安があるのは事実だし、昔のブログを読んでも「もうロングライドはいいじゃないか」と思ったことは一度や二度ではないこともわかるのだけど、それでも、好きだと思っていることなのに理由をつけて遠ざかろうとする心の動きはある種の病気ではと少し自分が心配になる。

魂を安定し続けるためには喧騒を離れられる時間は決定論的に必要なのではないかと思う。常時賑やかさの下でないとやっていけない、パーティージャンキーみたいな人もいるのだろうが、そんな人も死ぬまでそれで行けたというのはあまり見聞きしない気がする。人が一定時間に浴び続けられるアテンションの限度はきっとあって、そのどうにもならないアテンションをどうにかしなければと創意工夫に魂を使い続ける日が続くうちに、好きなことさえ遠のけようとしてしまうのだろう。

独走会 230703 煮干し一直線

人と集まらなければ楽しさはないなどと決めつけられたくない。

人との出会いはとても大事で、人との交わりなしに生きてはいけないので、交流を軽視する気持ちは全然ないけれど、「楽しみというのは人の集まりがあってのものだ」というのは否定する。人間はひとりの状態と集団の状態の二種類があって、なのでどちらの状態にも楽しみと苦しみがある。どんなものでも両面があり存在する以上は表裏がある。ひとりの状態に楽しみのない人はたぶん人と集まった際の楽しみも十全に楽しめていないと思う。それはひとりの状態からの逸脱、逃走に近いのだと思う。ひとりで芯からオリジナルな何かを生み出せるというのは思い上がり以外の何物でもないけれど、集まることに依存する人たちも得てして何も生み出さない。

僕の楽しさは僕の中にある。それは人との関わりも含めて僕の中にある。

独走会 230521 doors yamazoe 61.40km/1,445m elev.gain

死ぬかと思った。

行先を決めず走り出して、往路のみ復路輪行もできる装備で行ったけど、なんとなく布目ダムで折り返しで自走で帰る、というお決まりのルートにしたものの、行きの大柳生あたりでひどい耳鳴りがしたり早々に苦しくなったり、やっぱりトレーニングしていないから走力が落ちているなと落胆しながら走ってた。doors yamazoeはオープンと書かれてた12:00よりちょっと早くついたものの、もうちょっと待ったとて開店する気配が全く感じられなかったので写真だけ撮って後に。

そこから水間まで2回も休憩取ったほど調子が上がらなかったけど、よく考えてみればロードバイクを始めた頃から10年が経ち、年齢的に伸びしろはもうないし(もともとのベースが低いのでトレーニングすれば人並みには持っていけるという意味で伸びしろはあるけど)、自分の年相応のライドを考えないといけない、と振り返って思った。熱中症とか、今まで幸いなったことがないけれど、自分の体力はよく考えないといけないとつくづく思った。

独走会 230414 つるカレー 30.39km/333m elev.gain

ちょっとカレーを食べに。

年に4回ある、平日の公休日。なんかしたいなんかしたいと思いながら計画も段取りもできなかったので、ちょっとカレーを食べにいくということで、日曜やってないのでなかなか行けなかったつるカレーに。

開店直後くらいに着いたのでお客さん誰もおらず、マスターに丁寧にしてもらいました。カレーは、どのサイトでもどのブログでも絶賛されている通り。あやめ池のプラーナで修行をされたということを知る流れでプラーナが閉店したこともしり、なおさらこのお店を応援したい気持ちに。店内のおしゃれさも、陳列されている本のチョイスも好みです。

流して走る、それだけで気分転換。ちょっと前に気分転換についてうだうだ考えていたのが可笑しくなります。

独走会 230306 天下一品 上朝宮店 95.83km/1,116m elev.gain

のんびり、家から50km先の天下一品に。

もう何年も前のような気がするんだけど(コロナ禍前だったように思っているけれどそこまで前ではなかったような気もする)、通ってる美容院の担当の人から、天下一品 上朝宮店がめっちゃかっこいいと聞かされていて、いつか行こうと思ってたタイミングが遂に来た感じで行ってきた。100km走る時間があるなら行きっぱなしのロングライド、と思いがちだったのだけれど、ここ最近は「自走で帰る100km」のほうが気楽で出やすくなってきた感。

開店の11:00前に着いたんだけどすでにオープンしていて、並ぶでもなくすんなり入れたので「そんなもんか」と思ってたら、店を出る頃にはウェイティングがずらーっとできてた。やっぱり人気店。古民家?をそのまま使った店の作りは本当に小粋。サイドメニューもめっちゃ充実してますがここは敢えてラーメン単品で行くのがオツ。

今回は宇治田原に入ってから天一に着くまでが絶不調でぜんぜん走れなかった。帰りはしんどかったけどそんなにイヤだなあ漕ぐの、という感覚は残ってない。振り返っても、もう走りたくないって感じは湧いてこない。こんなライドが今の自分にはあっているのかも。

独走会 230212 ASTRALRAY COFFEE 25.23km/338m elev.gain

気分転換と目的地探し志向の衝突。

ロードバイクに乗りたいという気持ちはある。だけど、あまり長距離だとしんどいという思いが擡げる。かと言って近場だと「わざわざ?」という感じになる。それでも漕ぎ出そうとするためには、どこに行く?という目的が欲しくなる。目的もなくただ走って帰ってくるのではなぜ行けないのか?と堂々巡り。

いつもの逡巡にどうにか打ち勝って、思い定めた目的地はコーヒー。そうなると今度は「スタバ?わざわざ?」かと言って「そこ?そこじゃ近すぎない?」の往来を止めてくれたのがASTRALRAY COFFEE。ウェブニュースの記事を複数見かけて知ってたし、そうでなくても奈良市街に出る際に通りがかって「洒落てるな〜」と思ってたので一度行ってみよう!と。

新大宮なのでほんとに「ちょっと行って帰る」感覚で行けたし、お店はかっこよくてその実気楽な空気感で、ここで一杯飲んで折り返す、というのにもってこい。飲み終わってカップ返しにいったら「あら...喉乾いてたんですね」と、乾きに耐えかねてカフェを見つけて急いで一杯飲んだというふうに言われたんだけど、違うよ、このお店が目的地だったんだから。

独走会 230212 琥珀荘 33.79km/368m elev.gain

立ち位置を落ち着いて把握してみる。

ロードバイクを始めた当初は、帝塚山大の前の登りすら、あれがあるから奈良方面に行きたくないなと思うくらいだったのが、4年5年と経てあまり苦でなくなった。コロナ禍でインドアトレーニングを結構やった一昨年あたりは逆に実力があがったなと実感できたけれど、去年はあまり走らず、結果、奈良に行って帰ってくるくらいがちょうどいいなと思うように。

落ち着いて考えてみればロードバイクを始めて10年以上、40代はそれまで何も運動していなかった分伸びしろもあって、40代とは言えトレーニングを積めば積むだけ人並みに近づけるという思いがあったが、50歳になっている今、いつまでも無邪気に伸びしろを求めていけるのではないかもしれないという少し寂しい思いが去来する。それに抗うような「生涯現役!」的なスタンスは不快感があって、でもそれは「外向き」の匂いをそこに感じるからかも知れず、どのように生きていきたいのかというスタンスで「生涯現役」を志向するのは受け入れられるように思えた。

せっかく奈良まで出向いたら新しいお店を開拓するか、それともお気に入りをリピートするのか、毎度逡巡する身にとっては、あたりをつけた行ったことのないお店が臨時休業だったりなぜかオープンしなかったりするのも、今日はお気に入りをリピートしようという気持ちにさせてくれるものでありがたい。近距離ライドは不意の出来事でも時間を気にせずにいられるのがいちばん。琥珀荘はこの上なく居心地がよくてお気に入り。

独走会 230109 東大寺 36.40km/465m elev.gain

一年、何も書いていなかった。

時の経つのは本当に早い。というより、ぼうっとしていると本当にあっという間に時間は経ってしまってる。ツーリングのことも、読書のことも、貸棚のことも、ちょっと書く気にならないな、これを書くのに費やす時間がもったいな気がするな、と思っているうちに1年が経っていた。

去年、ブログの手が止まったのは、ひとつは仕事のログにこれまでにないくらいの力を注がないといけなかったからだとわかっている。さらに、その目的意識のはっきりした記述作業が、「誰も見ていない記述に費やす労力」を「無駄」だと思わせていた。

それは大きくは間違っていない。時間を費やすのなら金銭に変えられるほうがいい。去年は、新しい仕事を始めたことがあり、それでいい一年だった。そして、一定のペースを掴むことができて、ここに戻ってこれた。

頭を過ぎり過ぎりする靄々を言葉に変える作業が、今年一年は再び必要になる直感がある。

そのための独りの時間を頑として確保しなければ死んでしまう直感がある。

独走会 210807 布目ダム 77.38km/1,556m elev.gain

"精神のリミッター みなのうなしてしまえよ"
("愛なき道"/稲葉浩志)

もはや恒例というか、感染拡大で県を跨いだ移動が憚られ、京都と滋賀にはまん延防止措置、おまけに風は東風5m、県の南側はさすがに直近3回行ってて飽き気味なので、久しぶりに布目ダム周回に。

前回の津行きの朝と違い体調は懸念なし、ただ最近すぐに心拍がマックスに達して苦しくなる感じで、これは暑さも関係あるだろうと、とにかく心拍が上がらないように、登りで無理をしないように、少しでも心拍がキツいようなら迷わずペースを落とす、というのを意識して柳生から布目ダムに。

布目ダムで記念撮影休憩のあと、水間トンネルに向けてまた登り。意識して抑えていたのでペースは遅いと思いつつ、走り終えてみて辛かった記憶はやっぱり全然ない。呼吸も気をつけていたし、意識して心拍が上がらないように、心臓を安定的に保つようにしていたのが効果があったのだと思う。過去の布目ダム周回と比べてみたらペースも遜色なく、むしろ若干早くなっていたので、登り方としてはこのほうがよいのだろう。

心拍を一定にするというのは思わぬ気づきだった。これはわかっていたようでわかっていなかった、日常生活にも仕事にも活きる。エモーショナルであることが現代では必要なことと思っていたが、感情的ということとエモーショナルということは違う。心拍を一定にしつつエモーショナルというのは、浅い考えだと「演技」になってしまうがそうではない。なぜ心拍が一定のほうが効果があるように思えたのか?それは自分のアクトに対するフィードバックを確実に受け取れるからということと、エモーショナルを適切に表現できるからだ。離見の見。自分に取って不快で受け入れがたく、かつ自分に理がある状況であっても、心拍は一定に対応する。これは思わぬ気付きだった。

自分は若干ナイーブで、何かに没頭すると極みに行き着いたときに破綻してしまう嫌いがあり、ずっとそれにはブレーキを掛けてきたが、リミッターを外しても破綻しない、破綻の衝動をうまく使いこなせるところにたどり着きつつある実感がある。それは目線を上げたこととも少し関係していると思う。そして呼吸を保ち心拍を一定にするというのは、イメージだけではなくフィジカルにおいても日常生活に仕事に役立つ気づきだった。

以下箇条書き:

  • 補給戦略が成功したと思う。少しずつ飲んでいると大量に飲まなくて済む。
  • 過去、完全に気持ちが切れたことのあるポイントも冷静に通過できた。
  • 昼食を食べてからはやっぱりちょっとペースが落ちた。食べてすぐ走るのはよくない。
  • 平地での速度低下課題に関しては、ケイデンス80は問題ないので、ギアに対する脚力の問題。

独走会 210722 津 110.08km/1,069m elev.gain

"ためらうことなど何もないよ今更"
("Brotherhood"/B'z)

家族が「夏休み気分を味わっておいで」と一泊ライドを計画させてくれ、一泊して早朝帰宅するプランで検討した結果、宿泊先を津に。いちばんの理由は近鉄特急で最初から最後まで帰れるという感染対策面。それから暑さを考えると慣れたルートが安全だということ。そして、やっぱり折りに触れ三重の地で感情を満たしたいこと。

津はどんなにペースが悪くても帰り輪行なら十分日帰りできる行き先だけど、今回は一泊でなかったら走らなかったかもという感じで調子が悪かった。163の大河原の先の登りで足をついてしまったし、大山田あたりからの緩い上りルートもいつもより更に全然回らなかった。そして途中、軽装のサイクリストに悠々パスされたんだけど、なぜかそこでスイッチが切り替わって、追いつくことはできなかったけれど急に楽に走れるようになった。

自分の世界観と、会社の世界観とが掛け離れていてしんどくなることはもちろん多々ある。ビジネス界における知識不足や、会社内での無言のセオリーの把握不足でやさぐれそうになることも多々ある。一言で言ってしまえば青臭いということで、青臭さを抑えることが成功の道だと長い間勘違いしていたことに気がついた。これは素質であり、自分にしかやれないこと。そして、これこそが課題だった、協力し協力を求める動きは身についてきた。正論は貫き通すためにあるし、貫ける時代になってきたことを肌で感じる。リミッターは外しても大丈夫。

行き先で一泊して、ゆっくり晩ごはん食べて寝て帰れるというのはツーリングの楽しさのひとつと心から感じた。でもこれは度々やりたいと思ってはいけない。たまに、それこそご褒美的にというのがよく似合うと思う。今回は津について、時間はたっぷりあったのに、チェックインできる15:00までの間の時間をどう潰すかにさえ手こずったくらい疲れていたので体調は若干よくなかったんだと走り終わっても思った。それでも、学生時代を過ごした津を少し流して回るだけで、自分が見ていた世界がいかに近視眼だったか、もっと高いところを上を見ようと、そして自分の思想を貫いていこうと思いを新たにできた、家族がくれた貴重な夏休みだった。