独走会・街のパン屋でパンを買う - 2015/11/23 春日大社・こはく

言葉が痩せ細っていくのは、希望を持って生きていないからだ。

三連休の最終日、時間を得ることが出来、どんなふうに走るか逡巡し、馴染みのルートをリラックスして走ろうと平城宮跡経由で春日大社へ。

春日大社は七五三。いつものように御朱印を頂き9:30。この時間に営業している喫茶店というと工場跡事務室しか知らず、覗いてみるも連休の朝、やっぱりみんなここに来るようで待ち列二人。なのでもう家路についてパン買って帰ろうと、法連町の「こはく。」へ。

帰り道、ふと、先日、cafe cafuaで、ブログを読んでもらってると話してもらったことを思いだした。ああいうとき、どんな風に話せばよかったのかなあと少し後悔していたこともあったが、恥ずかしいと言った言葉には嘘はない。インターネットの黎明期からホームページを作ったり日記を毎日更新していたり、書くのが大好きだったけれど、ここ数年、思うように書けないなあという実感は強くなるばかりで、だから、ブログというオープンなウェブ上に書いている以上誰かに見てもらえることは百も承知の上で、いざ読んでくれている人と出会うと恥ずかしいと思ってしまう。しかし、読んでもらっていると聞いたことで、急に少しブログを書くときの心持が変化したような気がした。これは一体何だろうと考えると、読んでくれるから嬉しいという単純なことではなくて、自分の想いを向ける何かがどこかにー将来にーあるのかどうかが、言葉を生み出す厚みを生むのではないのかと思い至った。そうすると、若い頃の自分は、何かにつけ夢とか将来とか言うのがあまり好きではない性分だったけれども、あれだけ毎日言葉が湧き溢れ出ていたのは、つまり、自分の想いを向ける将来が、希望があった、それを信じていたということだと思い至った。そして、そういうことを忘れ、社会にも日常にも諦めと諦めの埋め合わせとしての怒りでごまかしているうちに言葉は痩せ細っていっていた。

しかし今私は家族とともに、少しずつ自分を変え、新しい自分の理想を模索し、形作ろうとし、そして新しい言葉を獲得しようとしている。そこに抱いている夢や希望は、どれだけ荒唐無稽なものでもよいのだと、そうすることで言葉を獲得していくことが生きていくということなのだと、富雄からの登りをこなしながら強く自分に覚え込ませていた。