グラジェネ嫌悪感

二十代の頃には「少しでも社会が良くなるように考えなくなることなんて考えられない」と思っていたけれど、四十を超えた今、ふとそういうことを思っている自分に気づいて驚く訳です。「もうたぶん、自分が生きているうちに、この社会が劇的によくなることなんて多分ないんだろうな」と。


心のないやさしさは
敗北に似てる
(『青春』/ザ・ハイロウズ)

八十歳まで生きられたとしてあと四十年、戦後六十八年経ってまだこの程度なのにあと四十年で素晴らしい社会に成長成熟してるなんてどう考えてもありえないと、冷静な頭ではとうにわかっていたはずだけれど、それでも少しでも良くなる方向に個々人が考えて行動しなければ何も変わらないと律儀に考えてニュースを見て考えたり選挙も真面目に投票したりしても、一票の格差裁判とか特定秘密保護法案とか政治献金とか見てるともう萎えるしかない訳です。これをまたチャラにするのに何十年かかってその頃はもうほんとに老い先見えてる頃だしな、とかリアルに時間間隔が見えてしまうので、前向きなエネルギーが萎んでいくのです。

じゃあ自分はどうするのか?かつて十代の頃の自分たちがそうだったように、冷めた醒めた目でシニカルにアイロニカルに世の中を見ながら過ごすのか?よりよい社会なんてことに興味持たずに、自分は自分の楽しみのために日々を暮していくのか?いや違う。今この現時点で二十代の若者たちの中には、よりよい社会、これから求められるよりよい社会像を追及して活動している人たちがいるだろう、年を取った者は、そういう未来のある若い世代を応援・支援するのが勤めじゃないか。古臭いご隠居像かもしれないけれど、やっぱり世代を繋ぐことに意味を見出す。

今の私はもちろんまだまだ現役なので、若い世代の応援なんて言っていられなくて、まだまだやらないといけないことがたくさんあります。でも悲しいかな少しずつ先が見え自分が何者か知り限界もわかりつつあるなかで、自分が直接何かをやるだけではなく、誰かの役に立つことも考えていかないといけないと思います。しかしながら現代の日本は、未来ではなく、現在のマジョリティである「団塊の世代」という老年世代に対するアクションばかり。そこがお金を持っていて、そこが大多数だからと、「グランド・ジェネレーション」とシニアを呼び換え、おだて上げ、盛んに消費を煽り立てている。それこそ隠居、という消極的で日陰を強いられるようなイメージを嫌った現代の老年世代に「グランド・ジェネレーション」は熱狂的に受け入れられているみたいだけど、本当にそれは年を取った人間がとるべき振る舞いなんだろうか?もちろん老年は一線を退いて質素に暮せとは思わないけれど、死ぬまで自分が主役という顔で生き続けるというのは違うと思ってしまうのだ。それは社会の未来=若者を食いつぶし、自分たちが生きている間は未来は全部自分たちのものにしているのと同じことだと思う。グランド・ジェネレーションには、消費以外にやるべきことが他にたくさんあるだろうと思う。グランド・ジェネレーションが消費するから、若者の仕事がたくさん生まれ経済が回るんだよと言われれば、その「経済主義」を乗り越える思想を生み出すのが高度経済成長の恩恵を受けるだけ受けて今だ恩を返せてはいないあなた方の仕事だろうと返してみる。何十万というお金を出して「ななつ星」で過疎の地を巡っている場合ではないでしょうと。