『鶴見俊輔集 6 限界芸術論』/鶴見俊輔

長い間興味を持ち続けているテーマが、ひとつは「過ぎたるは尚及ばざるが如し」で、もう一つが「美」。過ぎたるは尚及ばざるが如しというのは、人間の活動はビジネスにしてもスポーツにしても高みを目指して努力を続けるものだけれど、特にビジネスに関しては青天井という訳にはいかないし、利潤追求の結果いつかはたいてい破綻してしまうので、サスティナビリティと言った概念が登場したりする、でも本当に持続性を実現しようとするのであれば、どうやって「やり過ぎない」で住むような仕組みを構築するかを考えなければならない、その心得としての「過ぎたるは尚及ばざるが如し」。これを「確かに経済的にも、過ぎたるは尚及ばざるが如しだね」と納得できるだけの言葉を持ちたい。もう一つの「美」は、ニーチェが終盤たどり着いたのが「美」だと読んだことがあって、金銭とか数値とか理屈とかではない、というよりもそういうもので表しきられることのないモチベーションは「美」なのだろうと思っていて、「美」を何か差別的な特権的なポジションではなくて、人がよりよく生きるためのモチベーションというポジションに位置づけるような言葉を持ちたい。この2つの「言葉を持ちたい」という願望を長い間持っています。

そこに現れたのがこの『限界芸術論』でした。

今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を、「純粋芸術」とよびかえることとし、この純粋芸術とくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられている作品を「大衆芸術」と呼ぶこととし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」と呼ぶことにしてみよう。

この三元論は衝撃でした。数直線状だった僕の「美」に対する意識を否定されました。芸術の尺度を単純に「美」だけで言ってはいけないとは思いますが、少なくともその「尺度」が三種類あることを肯定した文章に初めて会いました。

生活の中に芸術を置く試みというのは、僕個人の感覚としては相当難しいことです。その理由は3つあって、1つは、生活の中の芸術だとしてもある一定のレベルに達していなければ芸術として成り立たないということ。だから大抵は、学生時代の部活で馴染んだジャンルを生活の中でやるか、相当程度時間に余裕のある社会人が時間をかけて習得するかのどちらかになる。2つは、その結果、勢い社会全体が「生活の中に芸術を置く」という価値観を共有できないので、「生活の中に芸術を置く」という行為が「とあるムーブメント」以上にならないので、それは「社会」にならないということ。3つはやはり「限界芸術」は「職業」ではないので、それで生活を成り立たせず、その結果、いつでも脇に置かれてしまう性格にならざるを得ない、ということです。

本著でも柳宗理の「民芸」について取り上げられていますが、「限界芸術」が規定する、「生活との境界線にある」という点は、「美を極め(られ)ない中途半端な取り組み」の「言い訳」として機能してしまわざるを得ない、という決定的な弱点を持ちます。その弱点を自覚した上で「限界芸術」として取り組むのか、それともその「言い訳」を巧妙に駆使して、「天井」を回避するような楽なやり方に逃げこむのか。

すでに見てきた柳田国男の小祭の復興という理念は、ここに見事に生かされているのではないか。柳田・柳両氏に見られる復古主義的心情は、宮沢においては、遠い未来のほうをむく新しい革新的意思によっておきかえられている。

これを具現せんと活動していたのが宮沢賢治であるとし、彼の著作から「限界芸術」の理念を言語化していくところは圧巻です。賢治を読む人は誰しもが感じる無垢のループ。それが「限界芸術」のキーであるという説には厚みがあります。ただし、柳田國男を引いている点については、この後読んだ『現代日本の民俗学 ポスト柳田の50年』によって感想が大きく歪むことになりました。

4480085254 限界芸術論 (ちくま学芸文庫)
鶴見 俊輔
筑摩書房 1999-11

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