街の本屋で本を買う - 2013/08/17 ジャパンブックス生駒南店 『文藝春秋 九月特別号』-『爪と目』/藤野可織

 データ・サイエンティスト関連のムック本、もしかしたら売ってるかな、と思ってちょっと行ってみたけれどやっぱり無くて、折角行ったので芥川賞受賞作を読もうと『文藝春秋』を買って帰りました。

はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。

の書き出しが有名になったように、この小説は「あなた」を主人公にした二人称小説で、この「あなた」と「わたし」の倒錯のややこしさと面白さが肝だと思うのですが、私にはどうしてもこの「あなた」を、読んでいる私に作品が向けているように取ってしまって仕方ありませんでした。

 本作には、三歳の女の子の「わたし」と、その父親、ベランダで変死した母親、そして父親の愛人で母親の変死後同居することになる「あなた」が登場しますが、「あなた」は生にとても執着の薄い人間として描かれます。子どもの頃、ハムスターを飼いたいと両親にせがんで買ったものの四か月で死んだ後は特段それを悲しむことも新しい生き物を飼いたいとも思わなかったというペットに関する挿話を、「わたし」と同居することになる際に思い出してわくわくする話として引き合いに出されるくらい、情の薄い人間(相手の男の連れ子と住むのを、ペットを飼うのと横並べにするような)。

 この、「目の前に流れていくことをうまくやり過ごしていくだけ」の「あなた」を、徹底的に冷徹に見つめていた「わたし」という存在も、一点を除いて「あなた」と「だいたい、おなじ」と言ってしまうんだけど、読んでいる最中、情が薄くて流れに任せるだけで「(不都合なものは)見ないようにすればいい」で生きているこの義母のことを「あなた」という、その「あなた」は読んでいる自分だ、と取ってしまいながらどうしても読んでしまいました。どうせオマエは、自分の身の回りで起きている面倒なことをすべて「見ないようにしている」んだろう、と非難され続けているようでした。

 そう非難し続けている「わたし」も「あなた」と「だいたい、おなじ」と言うところ、人間の精神活動の両義性みたいなものを感じて唸るのですが、「だいたい」じゃないところがどこかというのと、「見ないようにすればいい」という、作中登場する本の一節から引用された文章を「わたし」が「あなた」に言って聞かせたのが、「わたし」が三歳のこの時点ではなく「さらにあと」と表現される、「わたし」が恐らくはこの時点での「あなた」くらいの年齢に追いついた段であること、この二つを思うと、人間は所詮、という少し暗い気持ちにもなります。

 何を見ないといけないのか?という問いを突き詰めたくなる物語なのですが、なぜか、この「あなた」の突きつけられ方に強く引き付けられて読み終えたのでした。