『サラバ!』/西加奈子

思いも掛けず「”信じる”とは?」というラストに驚き。

宗教とは何か、と言う問いが凄く難しい。宗教はそれ自体人間を救うための尊いもののはずなのに、世界において宗教が関係して起きる凄惨な出来事の余りの多さに、宗教に対する嫌悪感・警戒感を抱かずにおれないから。しかしこれはよく無宗教と言われる日本人だからなんだろうか?本著のラストで、歩の親友であるヤコブが、

信じることがどういうことかなんて、考えたこともなかった。僕にとって信仰は、息をするのと同じことなんだ

というように、多くの世界の国々では人は信仰する宗教を持ち、少なくとも自分が信仰する宗教に対して嫌悪感・警戒感を抱くことはないんだろうか。もちろんそうなんだろう。嫌悪したり警戒したりするものを信じれるはずはない。

でも、宗教を持たなければ生きていけないかというと、そんなことはないと思う。大前研一氏だったと思うけど、世界の人々と渡りあうための常識の一つとして、無宗教だと言ってはいけない、信じる宗教がないというのは、グローバルな観点では自分を律する価値観を持たないと表明しているのと同じだ、と書いていて、上記のヤコブの言葉と照らし合わせても、なるほどと思える。けれど、それは人間の歴史の経験から生まれた慣習としてそうなのであって、世の中には宗教を持たず自分を律している人もたくさんいる。それを世界の人々に伝えることができるかどうかが一大課題であって、本著はコプト教信者のエジプシャン・ヤコブと無宗教の代表のような日本人・歩が心を通わせあうところに、伝えることができるという確信があるように感じる。

作中にはもう一つ、サトラコヲモンサマという、ある意味で理想の共同体の宗教が登場するんだけど、これも有り勝ちな形で崩壊する。この崩壊の事件で思い起こすのは、日本人にとっての宗教は、「縋る」とほとんど同意なんじゃないの?ということ。信仰というのは、自分が信じるその宗教の考え方というか理念というか、そういう魂のようなものを自分自身すっかりそのように考え振舞えるようになることだと思うのだけど、日本人にとっての宗教に対する態度はほとんど、「縋る」に二アリーイコールだと思う。自分ではどうしようもない事柄に対して、人間ではない大きな力にその解決を頼み込む、というのが宗教の姿なように思う。なので、ただひたすら念仏を唱えるとか、ただひたすらお参りするとか、そういう行為が認められているのだと思う。でも、仮にひたすら念仏を唱えるという行為を取るにしても、どういうつもりでその行為を行っているかで、意味が全く変わってくるはずではないかと思う。それは、「縋る」では駄目なのではないか。一見、無心のように見えて、その無心はほんとうの無心を穢してしまう無心なのではないか。その行為は、報われなかったときの態度に跳ね返って現れる。この観点、先日読んだ『沈黙

宗教は自分にとって縁遠く疎いテーマで、今まで関心を持って読んだことがあるのは親鸞についてくらいなんだけど、親鸞の悪人正機もその修辞の難しさで誤解してしまう。親鸞に関する書籍も再読してみよう。

そして、西加奈子氏出演の「あさイチ」の録画を観る。「現代ってすごく共感文化じゃないですか。私は共感できないものにどう接するか、その先が大事なんだと思います」。撃沈。ど真ん中。そこに共感してしまいます。