「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う-「当事者性」の問題 『チェルノブイリで考える』/津田大介ー『チェルノブイリダークツーリズムガイド』

 「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う。という当たり前のことをいつもくどくどと言ってしまうのですが、そういう当たり前のことをつい言ってしまう気持ちの理由というのを、改めて深く考えてしまいました。

 過度な当事者主義の横行も、異常な放射線忌避による風評被害も、震災遺構をめぐる問題も、すべてに通底しているのは問題の「腫れ物」化だ。紛糾を恐れ、デリケートな問題の議論を先延ばしにしてきたことが我々から「当事者意識」を奪ってしまったのではないか。

 「当事者」というのはとても困難な問題です。「当事者」の要望は、「当事者」が表明するだけでは叶えられないことがある。だから、「当事者」ではない人間がそれを拾い上げるという行動が起きますが、この「拾い上げ」が、「当事者」の意に沿っている場合といない場合があり、更に、純粋に意を汲み損ねている場合と意図的に沿っていない場合があります。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という、一見反論しようのない言い方で意見を通そうとする人々は、非常に危険であり、意見を表明する立ち位置としてこれは絶対的に間違っているということを明確にしたほうがいいように思います。「当事者の気持ちを考えてみたことがあるのか」という言い回しを使う心性には、「どこまで行っても相手方の気持ちを100%正確に理解することなどできない(かもしれない)」という想像力が働いていないことが明白だからです。我々は、「当事者」の代理で発言することは、本来ほぼ100%不可能なことだという謙虚な姿勢がどうしても必要になると思うのです。

 一方で、「当事者」が「当事者」として発言するときにも、同じことが言えると思います。このことを言うのは非常に骨が折れるのですが、それでも言わなくてはならないと思いますが、「当事者」は、「当事者」としてだけ発言すればいいのかというと、決してそうではないと思います。「当事者」は、「当事者」以外の人々が存在する「社会」を見据えた上で、要望を発言するべきだと思います。震災遺構の保存に関する保存派と解体派の対立と遷移は、時間経緯だけで考えるのではなくて、「当事者」と「非当事者」の双方向の意見交流の望ましいスタンスからも考えたほうがよいと思います。

 その上で日本社会のよくない点というのは、「当事者」に対して「社会」を見据えさせる強度がもともと強すぎること、つまり「忍耐」を強いすぎることだと思います。そして、特に震災に関してなぜ「当事者」に「忍耐」を強いさせるかと言えば、私たち「非被災者」が「非当事者」として振る舞っているから、「当事者」という自覚がないからに他ならないと思います。それは日本で起きたことでありながら、自分たちの問題ではなく、いつの間にか「先送り」に加担してしまっている。

 「わたしのわたし」と「あなたのわたし」は違う。当事者の代わりに、当事者の「わたし」を使うことは許されない。けれども、「わたし」を非当事者として配置するのは更に許されない。この当たり前のことを、「私たち日本人」的な思想でぼやかしてしまっているのにどうも苦々しく思います。わたしはあなたを、あたなはわたしを、双方思いながら物を言う。それを理想論だというところから、第三者が仲介に入るという形式を選ぶか、双方思うことなく「わたし」の主張をひたすらぶつけ合って着地点を探る形式を選ぶか、というような選択論が出てくるのだと思います。後者は短絡的にはアメリカ的な印象を持ち、こういう「声の大きさ」で勝負を決めるようなやり方はよい進歩を導かないと思ってきましたが、今現在の状況を鑑みると、お為ごかしが横行して「当事者」が救われないことの多い状況よりも、そちらのほうが幾分ましなのではないかと考えてしまいます。
4907188013 チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド 思想地図β vol.4-1
東 浩紀 津田 大介 開沼 博 速水 健朗 井出 明 新津保 建秀
ゲンロン 2013-07-04

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