隈研吾 x 産婦人科

義姉が長女を出産したということで訪問した産婦人科が隈研吾設計でした。

最初に断っておくと、隈研吾氏がこの病院を設計するに至った経緯(いきさつ)は、病院の理事長が隈研吾氏とリレーションを持っていたから、と聞きました。

この梅田病院は光市にあるのですが、義姉は違う市に住んでいて、その市は出産に関わる標準的な費用ほぼすべての額にあたるお金を出してくれるそうです。それを先に知っていて、訪れてみたら写真のプレートを見つけて、隈研吾設計と知り驚いたのでした。驚いて、じっと考えて、考え込んでしまったのです。

出産費用をほぼ負担してくれるということは、どんな病院にかかっても費用はゼロということです。だったら、たいていの人は、この梅田病院のような病院に掛かりたいと思うんじゃないか。普通は、そういう需給ギャップを解消するために価格差が発生して、うまく住み分けがされるわけだけど、費用がゼロなら住み分けが発生しない可能性は理論上はある。逆に言うと、「隈研吾設計」というような、従来の産婦人科にはないような、一流の設計を持ちこんだ特別な、よって当然かかる入院費用等が比較して高額になるような、そういう産婦人科が成立するのは、この市のような「特別補助」が存在するところでしかあり得ないんじゃないか。なぜなら、相対的に高額な産婦人科が、一定の妊婦を抱えて継続していくことは困難に思われるから。

設計が病院経営のランニングコストに跳ね返るのかどうかは知識不足で存じ上げません。けれど、少なくともイニシャルコストは通常よりも「相対的に」高額になるとは思われる訳で、それでもそのイニシャルコストを支払おうというインセンティブは、ある程度それでも経営がやっていけるという目算がないと働かない。そして、その目算を働かせているのは、行政の「補助」。

僕はこの仮説を瞬時に頭の中で巡らせたとき、ひどくげんなりしたものでした。

そしてこの仮説はあくまで仮説で、おそらく事実とは全く異なるということを付け加えておきますが、この仮説に似たようなことが、いわゆる「こういう」働きをしている人たちの生活の結構な割合を占めているのは事実だし、その事実が「相対的に」分かりにくくされていることに、-それは見栄えが「美しい」ことがその本質であるから-苛立ちを覚えます。平たく言えば、その元手は税金だったりするのです。

ちなみに梅田病院、サインは原研哉氏。

’98 梅田病院 サイン計画 | SELECTION | 日本デザインセンター
常識をくつがえす柔らかなサイン計画

CL 梅田病院 AD・D 原 研哉 D 井上 幸恵