心の豊かさ遅れる我が国の「コミュニティ」と「アソシエーション」

あけましておめでとうございます。思うところあってサイトタイトルを変えました。心酔するB'zの最愛のヴィデオ作品『Just Another Life』を拝借したタイトルは愛着強かったのですが、とうとう自分も後厄迎えますしね、というところで。

元日に相応しいエントリなんだろう、と考えながら(2013年締め括りのエントリが"ANKERモバイルバッテリ"のブログが言うことではないですが)あれこれ見ていたらWIREDに”「シベリアのイエス」の理想郷:ロシアの小さなカルト教団はぼくらに何を語りかけるのか”というエントリが。

ひとつには中産階級という極めて世俗主義的な階層がその後台頭してきたからです。中産階級は信仰をもちません。自分たちの生活が第一で、何に対しても不満をもちます。これは世界的な傾向ということができるでしょう

「生活」に対立させられるものが「宗教」なのか「倫理観」なのかはたまた「思想」なのか、言い方と概念は様々にあると思うけれど、いずれにせよ「生活が第一だと何に対しても不満を持つ」という一文にはっとしました。そして中産階級=世俗主義的=信仰を持たない、そしてその台頭。言うまでもなくこれらで思い起こすのは日本人なら誰しも「行動経済成長期の日本」だと思います。生活を第一(というと思い返すのはあの政党かも知れないけれど、そう考えるとあの政党名は本当に因果なものだ)にして、「一億総中流」(=総中産階級)を実現して、信仰を捨てた国。ただ、類まれなることに、一億総中流という「いっせーのーで」国全体が中産階級化できた結果、「食うに困らぬ」だけの「余裕」ある社会が、「礼儀正しい、マナー重視の市民社会」を実現した側面はあると思う。
ハイテクが進み、心の豊かさ遅れる我が国の
如何ともし難いところ
なんてどうでもいいかあ
いやいやよくないな ああよくない
(『Out Of Control』/B'z)

けれどもその一方で、そうした中産階級層がなくなりつつあるという傾向も、いま世界的には起こっています。高給取りになるか、低所得者層になるか、そうした二極化がどこでも起きている。ユニクロの柳井(正)社長の言う『年収1億か100万か』の世界です。国や会社はもはやあてにならない。そんななか、自分の収入が1億か100万かと言われればほとんどの人が、100万円になるかもしれないという恐れを抱きますよね

はっとしたのはこの先だ:

そうすると身近な人同士お互い助け合うところに行きつきます。そう思う感覚とヴィサリオンの世界は、あるいはどこかで通じ合っているのかもしれません

僕は「1億目指して競い合い啀み合う」というようなストーリーが頭に浮かんでいたのだが、「身近な人同士お互い助け合う」ほうが自然。ヴィサリオンは2,000人程度の共同生活体で、宗教の体裁を取っているけれど教義を広めていくという意思はないよう。ただ2,000人の閉じた社会(本文中では「非社会性」と呼んでいる)で言わば自給自足の生活をしている。

これを「アンチグローバル」の文脈で語るのは、自分たちの便利で豊かな生活が何に負っているかという「恩」を忘れた物言いなので慎まなければいけない(TPPの文脈でもそうだし、鎖国待望論みたいになってもいけない)が、「何に対しても不満を持つ」中産階級が何を目指すべきなのか、「そうは言っても食えなきゃしょうがないだろ」という強靭なロジックに対抗しうる弁を編み出せる契機がここにあるように思いました。それを「コミュニティ」でななく「アソシエーション」というのがただの呼び替え言葉遊びに終わる前に、しっかりした骨格を与える言葉が生まれないとと思います。