「やりたいこと」と「向いていること」

<大阪市>公募校長が着任3カ月で退職

直感的にいろいろ思うことがある。校長先生は辞職の自由はないんだろうか?もちろんある。けれど、校長先生が3カ月で退職するというのには何か受け入れられない感覚がある。それは校長先生だからだろうか?「公募の」校長先生だからだろうか?まず校長先生が3カ月で退職するというのはあまり聞いたことがない。聞いたことがないから、ニュースになっている訳だ。あまり聞いたことがないということは、今までに例のなかった「公募」の校長先生だからできたことということになる。公募の校長先生と、従来の校長先生の違いは何か?従来の校長先生は、たいてい、教職採用試験を受験し合格して先生となって経験を積んで数十年の後に校長先生になる。公募の校長先生は、「校長先生」として採用試験を受け、採用され、校長先生に収まる。

雇用の流動性を高めることが、高度消費社会において就業機会を広げる解のひとつとして、学校の先生も高い流動性の下にあってよいのだろうか?という疑問がある。公募校長の辞職は、雇用の流動性と、適職へのトライ&エラーという、現代社会で半ば「自明の理」扱いされている二つの真理に疑問を投げかける。自分には「教育を変えたい」という熱い想いがある。外資系証券会社という、ハードなビジネス界でのハードな経験がある。ならば「校長」公募に応募し、校長となって理想の教育を邁進しよう。そしてその結果、この現場は「自分の能力を活かせる場所ではなかった」と3カ月で見切って退職する。

向いてないことに時間を費やすことは短い人生で無駄でしかない、という風潮の中で、「石の上にも三年」などと言うこと自体、アナクロニズムに違いないが、ここには根本的な混同がある。彼は、「やりたいこと」をやろうとして校長の公募に応募したはずで、「教育現場が自分に向いている」から公募したのではない。そこまで向いていると思うなら、二十歳自分で教職の道を目指していておかしくないと思う。教職の道は目指さず、(その前にどんな経歴があったのかは存じ上げないが)外資系証券会社というキャリアを歩んでいる中で、「教育を変えたい」という「やりたいこと」を見つけて、校長に挑んだはずだ。ならば向き・不向きは関係ない。向いていないことのほうが多いだろう。「場所」がどうであるかは関係ない。自分の能力を活かせる場は、自分で作りだすのだ。

彼は、大阪市が「英語教育に力を入れる」という方針を掲げたのだから、それを金科玉条にできる環境なはずだ、と思ったのだ。そこに誰も逆らえない大義がある、と。誠に幼稚な考えだというほかない。仮にそれが大義だとしても、大義として実現させていくためには自分で行動していくしかないのだ。おぜん立てがされていて、そこに収まれば、自分の想いに沿った大義が実現していくようなら、その大義はとっくに実現されている大義だろう。

校長を「公募」すればこういうことは起こり得る。組織の長を内部からではなく外部から採用することは企業においては普通のことで、外部から採用された社長が1カ月で退任とかも珍しいことではない。では企業と学校で、分けて考えなければいけないことはあるか。企業も「継続性」が求められるが学校は企業とはけた違いに継続性が求められる場所だ。その主役は学生・生徒で、彼らは自分が所属している学校は少なくとも自分が卒業するまでは「当然そこにあって然るべきもの」という感覚で過ごすことが保証されなければならない。成長に過程にあって、学校は家庭と同じくらいに重要な居場所だ。その環境が、あまりに安易に変更されるべきではない。方針が変えられることこそあれ、個人の「自分の能力を活かせる場所ではない」というような理由で校長が変わるような事態はあってはならない自体だと思う。校長を「公募」すればこういうことは起こり得るのだから、校長を「公募」することを実現した判断それ自体がお粗末だったということになる。

教育の場というのは、学生・生徒が「やりたいことをやる」ための場であって、関わる教師や教育委員会や大人たちが「やりたいことをやる」ための場ではない。