御上至上主義で特定秘密保護法案は葬れない

ここには重篤な「御上至上主義」「御上依存」が染みついていて、何かを動かす力はほとんど宿っていない。

"なんと愚かな人間を、政治家などという仕事に就かせ、それをわざわざ身銭を切って養う事の哀しさよ!

言うても仕方が無いことやけど言う。
こういう動きが、せめて半年前ぐらいから始まってたら……。
マスコミや著名人が、せめて半年ぐらい前から声を上げてたら……。"
(ふくしま集団疎開裁判の会)

政治家と自分たちが繋がっていることを棚に上げているし、声を上げるのは「マスコミ」や「著名人」という「お上」がやってくれるべきだ、という「他人任せ」根性が染みついている。特定秘密保護法にアラートを上げるのは、別に個人だってできたはずだ。たとえ、それが近場の数人にしか伝わらなかったとしても。どこかの優れた一握りおスーパーヒーローが「政治家」や「マスコミ」や「著名人」となって、我々庶民の暮らしを守ってくれる、そういう発想こそが独裁に繋がるのだ、独裁を招く特定秘密保護法の成立に加担する意思なのだ、ということに気づいていない。「お上はダメだから我々で」では遅いのだ。お上はお上で動かし、自分たちは自分たちで動く。相手がどれほど「上」に立つ相手であれ、そいつのせいにするのなら自分の自由と引き換えになることを忘れてはならない。オマエは何を成し遂げたんだ?といつも返す刀で聞かれているのが人生。

ただ、僕のこの考え方は、現代のマスコミの怠慢に繋がっていることも理解するようになった。マスコミは我々一般大衆の合わせ鏡であるだけではなく、体制側の拡声器でもあり、なおかつ一般大衆が努力するときには自分たちの役割をサボることもあるからだ。マスコミに対してどうやって継続的な牽制を続けるか?かつてTVがほぼマスコミだったころは、なんだかよくわからないけれど「世論」というものが大反対しているので法案を通すのを取りやめよう、みたいなことが実際に起きた。情報流通がこれほどまでに簡単になった現代のほうが、そういう一般大衆の「大きな力」をマスコミが反映しなくなってきていると思う。